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山路さんが、述べられているように沖縄タイムスも琉球新報も、もはや「新聞」の名に値する価値は絶対にありません。

4月1日から本島配布が始まった八重山日報が今後の沖縄の言論空間に大きな風穴を開けてくれるものと確信しております。

また、ブログでは秀逸のブログ(農と島のありんくりん)始め、朗魔人日記と心強い論客が
健闘しております。きょうの、山路さんの「翁長知事、「次の一手」 その3 山城博治被告の保釈報道」等、沖縄2紙の社長や記者が読んだら、那覇の街は歩けんどころか、沖縄に住むこともできんとじゃなかろうかと、心配してるくらいです。

山城暴など、論外です。


農と島のありんくりん
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移り変わる自然、移り変わる世情の中で、真実らしきものを探求する


翁長知事、「次の一手」 その3 山城博治被告の保釈報道

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山路さんの3回目です。

山路さんにかかると、外部からはケイオス(混沌)にしか見えない沖縄の政治の構造が、スッと透視図を与えられたような気持ちにさせられます。

山路さんの論考には、沖縄内部からしか分かり得ない肌感覚を伴いながら、なお情緒にからめ捕られない凄さをかんじました。

しかも、ただ客観的であるばかりではなく、内には生まり島への熱い気持ちが凛と張りつめています。

私が知り得るかぎり、最良の沖縄政治評論だと思います。

今日は本来頂戴した論考の冒頭部分であった、地元紙についての章を掲載します。

テーマ性を明確にするために枕にあったこの部分は、恐縮ですが最後にさせていただきました。

ご存じのように沖縄政治の歪みの原因のひとつは、地元紙の極端なバイアスです。

文中山路氏が述べておられるように、この地元紙の問題性はただ偏向しているからだけではなく、「唯一の世界観しか県民に与えない」ということこそが問題なのです。

地元紙のまるでネルソン・マンデラ釈放のような見出しだけ見ているとつい錯覚しそうなりそうですが、これは無罪放免となって出獄したのではありません。

ただ、初回裁判日程が決定したから保釈を認められたにすぎません。

また、山城容疑者は「政治犯」ではなく、暴行罪などに問われた刑事被告人です。その目的が政治的だったにすぎません。

そのような刑事被告人をまるで「良心の囚人」のように報じる地元紙に、私は異様さすら感じます。

むしろ「囚人」は、地元紙が作った「唯一の世界観」という見えない檻に閉ざされた県民のほうなのです。

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翁長知事、「次の一手」その3 
                                   山路敬介 
承前

■山城博治被告の保釈報道

毎度の事ながら、沖縄二紙に目を通すと誠に暗澹たる気分にさせられます。

3月19日から20日の一面をかざるのは、両紙ともに「山城博治保釈」のニュースでした。

二紙そろって論調は、「ヒーローの復活」、「不当な逮捕・拘留からの開放」、「(釈放)運動の成果実る」等々、お涙頂戴のシーンさえ一面から登場する演出も臭みたまらず、「いくら何でも、ここまでやるか!」と思わせる異様さでした。

あのような卑劣で粗暴な暴力犯罪者の保釈を、あたかも多くの県民が待ち望んでいたかのように伝える報道は明確に誤りで、それだけでなく「運動」も「運動体」もごく一部の活動家や活動家を気取ったの面々だけのものなのであり、一般の県民とはまったく無縁の世界でありまして、まったく関係がないのが事実なのです。

また、このさい運動側が裁判所に抗議に押しかけたり弁護人が不必要なパフォーマンス入りで執拗な保釈請求を繰り返した事と、山城博治被告の「保釈決定」の裁判所判断の間も何ら関係がありません。

裁判が始まったのであるから、ただ単に向後拘留する意味はなく(条件を付したうえでの)保釈が認められたという裁判所の判断としては至極妥当、冷静ないつもの平常運転であるにすぎません。(つまり、当たり前の「お約束事」に過ぎないのです)

同じように、暴力団気取りの添田某の保釈が認められなかったのも、執行猶予中の身の上ゆえ、これも当然の判断でした。

今回の保釈が何やら「運動の成果」ででもあるような間違った印象を県民に与える沖縄二紙の馬鹿げた報道姿勢はもはや度を越しており、私自身、個人の一読者として再三にわたり電話や投稿の手段をもって抗議して来ておりますところですが、反応は鈍く、いつものとおり私の投稿は一度として採用されたためしはなく常に「なしのつぶて」です。

二紙は、単なる「偏向新聞」なのではありません。

 自社の論調だけが唯一の正義であり、それゆえあえて「県民」にたったひとつの世界観しか提示して見せているのです。

反対の意見は黙殺するか、あるいは自社の論調を補強する道具として使える場合のみ、「さらしもの」的に利用します。

そうした状態は現在に至っても、かつて仲井眞前知事が言った「特定の団体のコマーシャルペーパー」そのままであり、「新聞」の名に値する価値は沖縄二紙には絶対にありません。
                                                                              (了)
                                                                                                                      文責 山路敬介
                                                                          責任 ブログ主