アイコン 朝鮮に拉致された観世音菩薩坐像 観音寺×浮石寺 歴史背景 倭寇・仏教排斥

急遽造らせたようなブロンズ製の仏像と分けのわからないマスコット持参でお茶を濁そうとする韓国浮石寺の一行は14日午前中、アポなしで対馬に入り、それも観音様も持参せず、観音寺の前住職は礼儀知らずと面会を拒絶した。

対馬市と観音寺は、「観世音菩薩坐像」は仏像の中に収められていた文書の記録によれば、14世紀に朝鮮半島の高麗で造られ、浮石寺に納められていたと記されている。
しかし、どういう経緯で対馬の観音寺に祭られてきたのか全く不明である。関係者によれば、500年余り前から観音寺に納められたといわれているという。
 
対馬と朝鮮半島の間では、戦いとともに古くから貿易などの交流も盛んに行われ、観音寺の仏像も、仏教の普及や仏教工芸品の隆盛に伴ってもたらされたと考えられる。しかも、寺の名前が観音寺であり、寺が元々あって当該の観音様が納められたのか、観音様を誰からか頂き観音寺が建立されたのか、途中で観音寺に変更されたのか、田舎の寺の遠い遠い昔のことであり一切不明である。
 
長崎県は、観世音菩薩坐像の中から出てきた結縁文(けちえんぶん)があり、その内容を県のHPで公開している。
観音様を盗人して、その後拉致している韓国の浮石寺の関係者か反日の人物が、そうした長崎県のHPの内容を見て、当観世音菩薩坐像は韓国の浮石寺のものであると言い出し、裁判所まで担ぎ出し、韓国政府の返却に待ったを掛け、今では、浮石寺側は返却する意思など毛頭ない状況に至らしめている。
 
現在、当観世音菩薩坐像を拉致している韓国側は、倭寇(日本の室町時代の海賊)に盗まれたと捏造し騒ぎ出し、所有権は浮石寺にあると主張している。
 
対馬の観音寺にどうやって観音様が来たのか、500年も700年も前のことであり不明であるにもかかわらずだ。
反日路線を明確にしつつある朴新大統領の韓国政府も、国際条約など一切無視して返却しないままにしている。
 
(韓国浮石寺の境内には、観世音菩薩坐像の説明台が作られており、3ヶ国語で記載され、一番上に日本語の説明となっている。・・・一番上は普通だったら自国語だろうが・・・、日本のマスコミ用に急遽こしらえたようだ
 
観世音菩薩坐像の中に結縁文
当観音像が極めて貴重な存在となっているのは、観音像の中から発見された結縁文(けちえんぶん)に「高麗国瑞州浮石寺」「天暦三年」などの記述がある。
「浮石寺は、朝鮮半島忠清道瑞山郡(正式には、忠清南道瑞山市浮石面翠坪里160、電話041-662-3824、ソウルの南西方向(黄海側)、ソウルから直線距離約150k辺り)にあった寺で、天暦3年は中国・元の明宗の年号で、高麗の忠粛王17年に相当し、西暦1330年にあたる。朝鮮半島の高麗銅造仏で、制作時と安置寺院のわかるものは稀であり、誠に貴重な尊像といえる」と県の文化財として長崎県が説明している。(長崎県は浮石寺がまだあるとは知らなかったのだろうか、過去形となっている)
 
<前期倭寇と後期倭寇>
前期倭寇は、日本人が中心、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって島民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。
前期倭寇が活動していたのは14世紀(1300年代)、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から李氏朝鮮王朝の初期にあたる。
日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がきかず倭寇も活動し易かったという内国の政治事情がある。
 
<倭寇は被害島民たちの元寇への復讐>元寇1274年と1281年
朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇(1274年と1281年)に対する九州北部の私軍による復讐の意味合いと再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。
清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為を行った高麗人(朝鮮人)への報復であると記述されているという。
 
<モンゴル帝国と高句麗王忠宣王>仏像製作年と忠宣王1330
モンゴル帝国チンギス・カン(1206年から1294年)が全盛で、1294年から4ヶ国に分かれ連邦制に移行。モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。
 
「観世音菩薩坐像」の中に納められていた「結縁文」に記載されている年代は、27代高句麗王の忠粛王(1294年~1339年、在位1313~1330年及び1332年~1339年)の時代であり、忠粛王の父は26代高句麗王の忠宣王、母はモンゴル人、妃はモンゴルの皇族出身者である。
 
<高句麗軍による第1次対馬征伐>1389年
 高句麗軍は1389年に対馬侵攻(第1次対馬征伐)、対馬の船300艘破壊、家屋焼き討ち、倭寇により捕虜になっていた高句麗住民100名を救出したと高麗史などに記述されている。(前期倭寇はこの侵攻により下火となる)
 
<初代朝鮮王李成桂による第2次対馬征伐 壱岐・対馬討伐>1396年
1396年12月、李成桂(李氏初代朝鮮王、元モンゴルの武官、後高麗の武官)が壱岐・対馬討伐を命じた。朝鮮王朝実録に記載されているが日本には記録が残っていない。
 
<足利義満が前期倭寇を鎮圧>1400年前後
中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国、日本に対して倭寇討伐を要請するため使節団を日本へ送る。室町幕府3代目将軍の足利義満が1392年に南北朝合一を行い、その後倭寇を鎮圧した。義満はその功績により明朝と正式に1404年(応永11年)から勘合貿易を行った。
 (朝鮮はその後 第3次対馬征伐を行うことから、義満の倭寇対策は明国の要請に基づき、明国対象に行われたと推測される)
 
<朝鮮王による第3対馬征伐>1419年
1419年の「応永(室町時代)の外寇」李氏朝鮮の世宗(4代目在位1418~1450)及び父の太宗(3代目在位1400~1418)による対馬侵攻。
1419年6月、対馬の重鎮たちが明国へ行っている隙に、李従茂(朝鮮軍の総大将)率いる227隻、17,285名の軍勢が対馬に侵攻した。また同時に朝鮮国内の在留商人らを一斉に抑留した(当時の対馬の軍勢は600人とされている)。
朝鮮軍は対馬一帯の船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1,939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の島民を殺害したと朝鮮王朝実録に掲載されている。しかし、対馬の軍勢の反撃にあい2,500名の損失と戦いが敗戦であったことを同実録が記載している(対馬の宋定盛の撤退要求で、要求をのみ同年7月3日完全撤退)。
しかし、こうした李氏朝鮮国の動きに倭寇はなくなっていった。
 
この頃までが前期倭寇の動きと倭寇に対する高句麗王・朝鮮王の侵攻討伐。ただ、前述のとおり、高句麗王の時代の倭寇は、元寇(元と高麗軍)により虐殺され、壊滅的なダメージを受けた壱岐・対馬・松浦などの住民による高麗軍への復讐による攻撃であった。
しかも、1400年代の李氏朝鮮王の時代になると日本・朝鮮・中国の混成部隊が倭寇とされ、中国や日本から出撃して朝鮮や中国で密貿易をしたり、荒らしまわっていたという。
 
<後期倭寇>1523年以降
日本では1523年に勘合を巡って細川氏と大内氏がそれぞれ派遣した朝貢使節が、浙江省寧波で細川氏と大内氏が争う寧波の乱(寧波争貢事件)が起り、勘合貿易が途絶すると倭寇を通じた密貿易が盛んになり、さらに日本の中央で起こった応仁の乱の為、和光の取り締まりもできず再び倭寇の活動が活発化する事になる。倭寇といっても中身は、中国人主体に朝鮮・日本人の混成部隊、明史によれば真倭の日本人は3割と記されている。
後期倭寇は、中国との勘合貿易の行き詰まりからの(武力を持った)私貿易(密貿易)であり、1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。
 
<朝鮮における仏教排斥>1450年以降
1392年以降の李氏朝鮮時代に、儒教は、学究肌の両班(身分階級の最上位)階級や軍人の間で信念の基本的支柱とされた。
李王家の将軍達は仏教を迫害したものの、農村地帯では巫俗(朝鮮のシャーマニズム=土着信仰)を維持した。
韓国の朝廷は、中国からの文化的移転を増やす為に、儒教に基づく中国の官僚的な統治モデルを素早く取り入れ、政権と社会的規制において利用する為に儒教を促した。
朝鮮儒教の学校が開設され、その全ては中国の高等教育を受けた学者、大きな書館、職人や芸術家の支援者、そして儒教の考えに基づくプログラムにより教え込まれた。
李朝鮮王朝4代目の世宗(在位1418年から1450年)の時代までには、他の宗教は寛容に扱われ朝鮮の仏教も、それまで政治的中心だったものが、儒教の台頭により、権力中枢から追い払われることになった。そうしたところで仏教排斥が行われていた。
 
<時価総額最低12億円>
韓国人が盗人して、韓国政府が返却しないのは国際社会から見ても、今だ低進国の我がまま国家というほかない。
昨年10月盗まれたのは、対馬市にある海神神社の国指定の重要文化財「銅造如来立像」と、観音寺の長崎県指定の有形文化財「観世音菩薩坐像」、多久頭魂神社の仏教経典「大蔵経」の3点。
仏様や経典を評価できるものではないが、日本の古物商の評価では3点で12億円は下らないとしている。
 
日本の警察は、仏像などが韓国の盗賊により盗まれた可能性が高いと見て、韓国側に照会した。釜山の税関は盗賊が持っていた仏像は偽造品と思い込み、そのまま見逃していた。
しかし、日本側からの照会で、釜山税関に仏像の写真や通関記録が残っていたため、運び役の男(61)が捕まった。
 ただ、盗賊たちは仏教経典「大蔵経」は山に捨てたと供述していると朝鮮の新聞社が記事掲載している。(対馬なのか韓国の山なのか不明、対馬の場合は住民総出で探す必要がある。しかし、盗人が言うことで信用ならない。刑期を終え、釈放されてから売るつもりで隠している可能性も否定できない)
 
<「大蔵経」の情報は韓国側から至急取得して捜索を>
 「大蔵経」については、具体的な情報を韓国側警察から早急に聞き出さなければ、韓国の別の盗賊が観光と言いながら探しにくる可能性もあり、また、日本人の盗人が探し回るかもしれない。金銭による価値は何千万円~億円ともいうシロモノである。
 
国指定の重要文化財「銅造如来立像」もまだ返さず
観音様は大昔浮石寺に納められていたことは、観音様の中に入っていた結縁文で明らかになっているが、国指定の重要文化財「銅造如来立像」もまだ返ささない。
もうこれでは、盗人したものは盗人のものという韓国というほかにない。
 
<韓国の儒教は何処へ>
儒教国家であったはずの朝鮮国韓国、儒教は五常(仁、義、礼、智、信)の教えを説く。
ならば、浮石寺の連中が、観音寺サイトにアポも取らず、一方的に、最近作られたブロンズの仏像とマスコットなんぞよく持って来られたものである。厚顔にもほどがある。
500年も前から、対馬の観音寺に祭られていた観音様を、(捏造すれば別だが)何の根拠もなく、それも日本の倭寇が盗人した仏像とよく言えたものである。
また、口では、正規に日本側に渡ったか判明するまで当観音様を返さないとしているが、500年も700年も前のこと、田舎のお寺でわかりようがあるまい。それも代わりの仏像を持ってきており、返さないのは見えている。馬鹿にするにも程がある。
 
<礼知らず>
観音寺の前住職が言うように、一度観音寺に観音様を返し、浮石寺側が観音寺側と交渉に当たるならば、それも一理あったろうが、こんなことまでされコケにされたら、交渉もへった糞もなかろう。
当然、浮石寺側は、誠意は尽くしたとして、韓国での所有権を大きな声で主張するであろうが、何であれ盗人した韓国であり、拉致している浮石寺である。当然、元の所有者に返すのが世界の道理であるが、通用するような国ではない。
捏造しない限り判明もしない500年も700年前のことを遡るなどアホで馬鹿げた浮石寺は愚かというほかにあるまい。
 
<仮 説>
例え日本の倭寇が持ってきたとしても、その後浮石寺が返せなど日本側に対して伝えたという記録の一つも両国には残っていない(今になって捏造すれば別)。倭寇が密貿易で盗人の朝鮮人から当仏像を購入した可能性すらある。また、儒教家が仏教を排斥した時に、持ち出された可能性すらあるのだ。またまた、儒教家から排斥され、スポンサーをなくした浮石寺の坊主が、生活のため観音様を売り払った可能性すらある。いろんなことが考えられる。
倭寇の時代の次の豊臣秀吉の朝鮮征伐の時に、対馬の将官が、朝鮮人から有り難く頂いたのかもしれない。
結論から言えば、500年も700年も前の経緯は、記録を捏造しない限り、誰も何も判らないのだ。
 
 
<倭 寇>
そもそも倭寇は、韓国の朝鮮史でも明らかなように、元寇における元軍と高麗軍の連合軍に、壱岐・対馬・松浦が大虐殺・破壊尽くされ、怒った生き残り島民の恨み辛みによる復讐戦争であったのだ。そのことを韓国人は理解しているのだろうか。
これまで日本と朝鮮は何回ともなく互いに侵略して戦争を繰り返してきた。しかし、国と国の戦いならば戦争としても理解できようが、倭寇は無抵抗で虐殺された島の生き残った島民による復讐戦争であったのだ。
 
<結 論>
韓国政府は、仏像2体と経典1点を即刻日本へ返却することだ。韓国新政府が、李明博のように反日感情を弄ぶようなことは許されないばかりか、今回の件では世界の笑いものになろう。また、日本も韓国と寄りを戻そうにも、そのまま当事案を放置すればするほど日本の中に反韓感情が高まってしまうというものだ。
 
特に観音様は浮石寺が欲しいと言っても、対馬の観音寺が500年以上前からお祭りしている観音様であり、長崎県の文化財でもある。
浮石寺がそれでも観音様を欲しいならば、尚更、観音寺に早急に観音様を返却するという誠意を見せ、返却し、観音寺側とそれから交渉すべきだ。ただ、浮石寺側は14日の対馬訪日で、観音寺側に無礼を働いており、交渉までにはそれなりの時間がかかろう。結論も定かではない。
(13日までの観音寺の元住職の田中節孝氏は、「韓国側が、まず観音様を返却すれば、浮石寺から話があれば話には応じる」としていた。しかし、14日には「地域で長年育んできたものを、今になって返せと言う発想自体が信じられない。仏像の返還は国と国との間の問題であり、韓国の寺の関係者と会うつもりは全くない」と話し、浮石寺側の無礼非礼に対して態度を硬化させてしまった)。
 
また、当該の観音様は何億円とも評価されており、浮石寺はそれなりのものも用意する必要がある。当然のことである。最新製造のブロンズ像の仏像とマスコットでのごまかしはダメだ。
[ 2013年3月15日 ]
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