アイコン 中国網/浅田選手賞賛の38枚 冬季五輪の金メダル獲得の主力であることに変わりないと

浅田真央中国でも浅田真央選手の人気はすこぶる高い。中国網は多くの写真掲載とともに次のように伝えている。
浅 田真央選手はソチ五輪のフィギュアスケート団体で予想外にも転倒したが、人気に影響はなく、彼女が日本の「フィギュアの女神」「フィギュアの女王」であ り、冬季五輪の金メダル獲得の主力であることに変わりはない。浅田選手のプロ生涯、成長の過程は、まさに「泥より出づるも泥に染まらず」といえる。

今は「フィギュアの女神」だが、スケートを始めたきっかけは、足を鍛えてバレエを上達させるためだった。
母親の匡子さんはバレエダンサーになる夢があり、浅田真央選手は3歳のときにバレエを習い始めた。
スケートで足を鍛えるとバレエの上達が早いとされているため、スケートリンクに上がった。
彼女はすばらしい素質を持ち、能力を発揮し、小学6年生のときに難易度が高い技をクリアした。
それだけでなく、動作と表情は多くの人を驚かせるほど味わい深いものだった。
浅田選手は幼い頃から優れた氷上の風格を放っていた。
スケートの驚くべき才能に気がついた両親は、バレエをあきらめ、フィギュアスケートに専念させ、休学して特訓まで受けさせた。

しかし、フィギュアスケートはコーチ、練習場所、コスチュームの費用などお金がかかるスポーツであり、父である敏治さんの預金を使い果たし、借金は1300万円に膨れ上がった。
浅田選手の氷上での力強い姿は幼い頃の苦しいバレエの訓練で培われた芸術的素質と無縁ではない。このような困難な状況、両親の努力と後押しにより、彼女はフィギュアスケートの練習を続け、日本一のフィギュアの女王になった。
2011年12月末、浅田選手の母親が肝硬変で名古屋市内の病院で亡くなった。享年48歳。このとき、カナダのケベックでフィギュアスケートグランプリファイナル2011に参加していた浅田選手は棄権して帰国したが、母親の最期をみとることはできなかった。

最も苦しい時期を乗り越え、彼女は再び影響から脱し、全日本選手権で5回目の優勝を飾った。
その後、2シーズンにわたって低迷し、2013年末にジャパンオープン、アメリカで行われたグランプリシリーズ第1戦と日本で行われたファイナルで連覇し、ソチ冬季五輪前に自分を取り戻すことができた。
ソチ五輪といえば、キム・ヨナ選手の存在を無視できない。氷上で初対面してから、2人の名前は同時に挙げられ、「誰が本当の女神か」「生涯のライバル」などの話題は尽きたことがない。
同じ1990年9月生まれで身長もほとんど同じ、魅力的な美しさのこの2人は女子フィギュア界のトップ選手であり、似ている点も多い。

世界選手権では、同じく北米に長期滞在して練習し、いつも相手に勝ってようやく優勝できる。唯一違ったのは、2人の最初の冬季五輪となったバンクーバーでキム・ヨナ選手が立った表彰台は浅田選手より高かったことである。
4年ぶりの顔合わせは2人が同時に出場する最後の大会となった。ソチに行く前、2人は偶然にも一致してソチ五輪を最後に引退することを決めた。2人の「美少女」の最後の戦いはメディアの注目の的となった。日韓両国のメディアは両選手を全力で応援した。
以上の能書きにより写真が38枚も掲載されている。その数の多さは異例中の異例だ。
なお、中国網は、中華人民共和国国務院直属の中国外文出版発行事業局が管理・運営するニュースサイト。


 

[ 2014年2月24日 ]
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