アイコン 回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」中村春光・宮島滉会談③

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」のプロローグを思い出すままにつらつらと書いてます。③

松田九郎
中村春光という人物

中村春光会長と宮島滉(ひろし)氏の関係は宮島氏が佐世保農協の組合長、春光会長が吉井町農協の組合長というお互い農協の組合長という関係は勿論だが、春光会長は長崎県の農協団体の信用事業を一手に束ねる長崎県信連(長崎県信用農業協同組合連合会)の実力会長でもあり、一方の宮島組合長は長崎県農協中央会という農協の連帯を強めるという(長崎県農業協同組合中央会)の会長という、長崎県の農協団体系の両雄でもあった。しかも宮島氏は長崎県の農協団体を代 表して1983年(昭和58年)の第13回参議院選挙に出馬して当選している、やりての組合長として県下に名を馳せていた人物であった。

春光会長といえば自らは政治家にこそならなかったが、政治家にでもなっていたら松田九郎氏どころではないとんでもない大物になっていただろうと思うくらいスケールの大きな人物だった。2015年2月9日に92歳で亡くなったヤジ将軍・松田九郎氏(元衆議員で自治政務次官・当選2回)の後援会会長として選挙には誰よりも精通し、中国の大人然とした風格を備えた人物だった。

私は、そんな大物二人の会談に同席させて頂いたことを今でも誇りに思っている。今、 思うとあの時の宮島滉・中村春光会談は、その後の私の人生に大きなインパクトを与え、その後の様々な場面で私の思想と言動に少なからず影響を与えたことは間違いない。

春光会長は部屋に入ると私を同席させることを宮島氏にウもスンも言わせないぞという迫力で強引に了解を取った。上品で見るからに仕立てのいい、明るい色のスーツに身を包んだ宮島氏はちょっと猫背の姿勢で座卓に座っていたが、宮島組合長は私を一瞥するとひきつるような笑顔で頷くしかなかった。私は今日のこの大物二人の会談が特別の会談であることを察し、緊張したもんである。

私は宮島組合長に軽く会釈だけ済ますと、春光会長の隣に緊張したまま座った。宮島組合長は春光会長と私が座卓の席に座るとすぐに「来年(平成10年2月)の知事選にを衆議院を辞職して金子さん(原二郎)が出馬する意向を固めた。実は今日も事前運動で隣町の佐々町で国政報告会を兼ねた演説会を夕方から行うことになっている。そこで金子さんが衆議院を辞職した後の後任に息子の大典(次男)を出馬させようと思ってる。
中村会長には今回だけは松田先生が衆議院選挙に出馬しても、是非、うちの大典を応援してもらいたい。」と、のっけから切り出してきたのである。

中村春光会長といえば国会のヤジ将軍と呼ばれた松田九郎氏の後援会会長を長年務めるなど県北地区では松田系の大物中の大物として知られていた、が、1990年(平成2年)2月18日、中選挙区最後の選挙で松田氏が36票差で落選してからは松田氏との関係は必ずしも、しっくりいってなかったようだ。春光会長の口から直接に松田氏を批判する言葉は聞いたことはなかったが、宮島組合長からこのような申し出があること自体が春光会長と松田氏のこの時期の微妙な関係を如実に表わしていた。

[ 2016年4月 7日 ]
 

 

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