アイコン 回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」西岡党、恐れずに足らず。⑦

2016年、4月15日以降に発生した、熊本県を震源とする地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された多くの皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」の長~いプロローグを思い出すままに書いています。その⑦

西岡党、恐れずに足らず。

林幹事長林義博氏

私が生まれ育った長崎市には戦前の普通選挙運動に関わり衆議院議員を6期務め、戦後の昭和26年には長崎県知事に就任した西岡竹次郎翁、その妻で参議院議 員だった西岡ハルさん、長男で新自由クラブ幹事長、文部大臣、参議院議長等を歴任した西岡武夫氏、次男で長崎県議会議員だった西岡公男氏、また、竹次郎翁 の実弟、倉成庄八郎も衆院議員を務め、外務大臣を務めた倉成正は甥という華麗なる一族がいた。

 硬骨漢で波乱万丈の生涯を生きた西岡竹次郎翁を多くの長崎県民が敬愛していた。長崎市内ばかりか長崎県内の広範囲に広がっていた熱狂的な支持者のことを特別に西岡党と呼んでいた。

私が生まれ育った地域も、私の父も母も例外ではなかった。父は西岡竹次郎翁のことを竹二郎先生と親しみと尊敬の念を込めて呼び、母は西岡ハルさんをハル先生と呼んでいた。だからといって私の父も母も竹次郎先生やハル先生と個人的に親しくしていたかといえば、そんな個人的に親しいというような関係はなかった。また、個人的に何かを頼んだりするということもなかった。私の父や母にとって西岡竹次郎夫婦という存在は相撲の双葉山、柔道の木村政彦と同じようにヒーローのような存在だった。私はそんな環境で育ったのである。

宮島組合長から、次期知事選に金子原二郎氏の出馬を告げられた時の中村春光会長の心境は複雑だった。
中村春光氏といえば松田九郎氏の後援会会長として松田氏を陰で支え、政治家・松田九郎を世に出した功労者でもあった。その時に戦った相手こそ金子岩三氏あり、その後継者である金子原二郎氏だった。また、金子原二郎氏が知事選出馬の為に衆議院議員を辞職した後任候補に宮島組合長の子息、宮島大典氏が選ばれた場合、 宮島氏が戦う相手こそ松田九郎氏だったからである。しかも、その松田氏と政治的に盟友関係にあったのが西岡武夫氏だった。

 金子原二郎氏の知事選出馬、金子氏の後任候補としての宮島大典氏の1区から4区への転出に難色を示し、一向に色よい返事をしない春光会長に業を煮やした宮島組合長は「実は金子氏の知事選出馬を一番熱心に働きかけているのは県連の林幹事長なんだ。」と打ち明けた。
 更に宮島組合長は「去年(平成8年)、の衆議院選挙で大典は佐世保からの落下傘候補と呼ばれながらも1区で西岡さん相手に善戦した。しかも、たったあれだけの短期間の選挙戦でだ、西岡さんの強固な地盤といわれていた長崎市内でも互角に戦った。そういう意味で去年の衆議院選挙は来年行われる知事選挙の票読み、前哨戦のようなもんだったんだ。よしんば来年(平成10年2月)の知事選に西岡さんが出馬したとしても、長崎市内では金子さんが
少々は負けても、世間が思ってるほどの差は開かない。県央も県北も金子さんが圧倒的に強いよ。西岡党、恐れずに足らず。と林幹事長は自信をもって金子さんを説得しているそうだ。」と、知事選の勝敗は既に金子さんの勝利で決まった。

と言わんばかりの宮島組合長の言い草に、春光会長は宮島組合長の話を聞きながらも終始笑顔を見せることはなかった。

私は未だ会ったこともなかった林義博という 県議会議員に対して、嫌悪感と敵意がメラメラと湧き上がるのを感じていた。

[ 2016年4月17日 ]
 

 

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