回顧録「日刊セイケイ斯く戦ヘリ」プロローグ・西岡公男さんと会う。⑬
熊本震災でお亡くなりになりました方には心よりお悔やみ申し上げます。また、被災者の皆さまには心からお見舞い申し上げます。
回顧録「日刊セイケイ斯く戦ヘリ」プロローグを思いだすままにつらつらと書いています。
西岡公男さんと会う
平成10年(1998年)分正月気分がまだ残っている1月10日、私の仕事を手伝っていたSからケイタイに連絡が入り、「西岡先生が2月の知事選に出馬の 意向を固めたらしい。今からグランドホテルで公男さんと会うので、よかったら中山さんも同席して話を聞いてもらえんだろうか」。という内容の電話だった。
Sがいう公男さんというのは西岡武夫氏の実弟であり、元県議で副議長まで経験していた西岡公男氏のことである。当時、公男氏は身体の健康状態が思わしくなく、平成7年(1995年)4月の県議選への出馬を断念、県議を辞職して療養中だと聞いていた。
また、Sがいうグランドホテルとは長崎グランドホテルのことで、長崎市内の繁華街の少し外れに位置していたが長崎県庁に近いという利便性から、政治家や経済界関係者は勿論、怪しげな連中もよく利用していた。長崎っ子にとって最も親しまれたホテルであった。
Sが指定する時間に長崎グランドホテルに着くと一階にあるラウンジの右奥の席にSと西岡公男さんが私を待って座っていた。私は西岡公男さんとは初対面で あり、私が初めて会った最初の西岡家の人が西岡公男さんだったわけである。公男さんは病みあがりのせいか顔色が異常に青白く、とても痩せていたように思 う。私は公男さんを初めて見たとき、公男という名前からか平安時代の御公家さんを連想したのを記憶している。
公男さんは話をしていても気のせいか御公家さんを感じさせるものがあった。それは育ちと環境からくるものだったかもしれない。
Sの説明によるとSの兄と公男さんは中学か高校の同級生で、公男さんが頻繁にSの家にも遊びに来ていてSが幼い頃からの付き合いだと言っていた。元々S家は県議選は西岡公男、国政選挙は西岡武夫を応援していたとも説明していた。まさにバリバリの西岡党だったのである。
私は㈱グリーン環境の代表取締役の名刺といっしょに環境タイムス主幹の名刺を公男さんに渡した。公男さんが私に渡した名刺には社会福祉法人・平成会・理事 という肩書きが記されていた。社会福祉法人・平成会(長崎市横尾町)というのは久保勘一長崎県前知事の長男・久保安之氏が理事長を務める社会福祉施設であ る。安之氏の妹で久保勘一前知事の4女の佳子さんが公男さんの妻であり、佳子さんの姉がその後、五島市市長になる中尾郁子さんという、これまた恵まれた環 境にある華麗なる一族であった。
公男氏は兄、武夫氏が知事選出馬への意思を持つに至った経緯を説明し、西岡武夫出馬表明の遅さを詫びた。
それでも兄、武夫が出馬すると決めた以上、弟である私は死ぬ覚悟で応援したい、よかったら中山さんも応援して頂けないだろうか。と、必死になって訴えたの である。そして公男氏は私が発行していた環境タイムスをジャケットの内ポケットかた取り出し、兄が知事になったら第七蛭子丸は必ず引き上げてみせる。と、言っ たのである。「日刊セイケイ・長崎浪人・中山小六(洋二)」
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