アイコン 朴槿恵大統領と崔順実・崔太敏の親子との関係

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母を失い失意の朴槿恵に接近した男とは
1974年8月15日、光福節の祝賀会がソウル国立劇場で開催され、朴正熙大統領夫妻も参加していた。在日朝鮮人の文世光は北朝鮮の命を受け、朴正熙大統領を射殺するため発砲するも妻の陸英修氏に銃弾が当たり暗殺される。
当事件を文世光事件とも呼び、母親をなくした朴槿恵は悲しみに暮れる。

そこに現れたのが、崔順実の父親である崔太敏(チェ・テミン、1994年5月没)。母親の想いを伝えに来たと朴槿恵に接近し、心の隙を突くようにいつしか彼女の隣に居座った。

この崔太敏氏は、1970年代初めころに「永生教」を開祖、「永生教」の看板を降し、1975年4月に「大韓救国宣教団」を創設して自身が総裁になり、朴槿恵を名誉総裁に据える。

青瓦台への出入りが自由になった。その後、朴正熙大統領の傘を利用し、1979年には組織を「セマウム奉仕団」に改称、各地域、大学、企業内にも支部などを開設するなどして急速に組織を拡大させる。(韓国の農村近代化運動の「セマウル」とはまったく異なる)

この「セマウム(新しい心)奉仕団」は表向きには国民の精神教育やボランティア活動などを行っていたが、水産物市場の運営権に食い込むなど各種の利権にも手を出し、その運営基金を大企業の総帥や役員から拠出させていた。
「セマウム奉仕団」の「大学総連合会」の会長こそが、崔太敏氏の5番目の娘でもあり、朴大統領が機密文書を漏洩させていた崔順実氏である。

朴正熙大統領は、母を亡くした娘に急接近する崔太敏氏に不穏な空気を感じ、大統領秘書官であった鮮于連を通じ、崔太敏の排除を命じるものの、朴槿恵の懇願もあり曖昧に事を済ませてしまったという。ただ、当時KCIA(韓国中央情報局)の部長であった金載圭が、この件について徹底した対応を大統領に進言していたとされ、受け入れられず、このことが、1979年に金載圭が起こした朴正熙大統領暗殺事件の動機の一つであったと逮捕された後供述していたという。

その脅威が今になって、朴正熙大統領の娘である朴槿恵大統領に襲いかかっているといえる。
問題の登場人物たち、
朴正熙大統領、妻の陸英修、朴夫妻の娘の朴槿恵、「永生教」開祖の崔太敏、その娘の崔順実と夫の鄭允会、その娘のチョン・ユラ。
 

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[ 2016年11月 1日 ]

 

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