アイコン カズオ・イシグロ氏からの手紙 長崎市と長崎県に

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ノーベル文学賞を受賞した長崎市出身のイギリス人作家カズオ・イシグロさんに、長崎県と長崎市が祝福の手紙を送ったところ、感謝の気持ちと長崎への思いをつづった返事が届いた。
このうち、長崎市の田上市長に先月下旬に届いた手紙には、感謝のことばとともに「私にとって記憶の中の日本はまさしく長崎のことで、『長崎』と聞くだけでいまだに特別な気持ちに包まれます」などと、長崎への思いがつづられ、直筆のサインが書かれている。
田上市長は「文面から長崎への強い思いが伝わり、長崎とイシグロさんが見えない糸でつながっているようでうれしく思います」と話した。

また、中村知事宛ての手紙には「長崎での子どものころの記憶は、小説家としての私のキャリアの基礎となっており、これからも長崎は私の一部であり続けます。受賞の喜びと誇りを長崎の人たちとも分かち合うことができ、とてもうれしいです」と書かれていた。
中村知事は、「生まれ故郷の長崎を大事に思う気持ちを改めて感じました。ふるさとを共有できることが私たちにとっての誇りです」と話した。
長崎県と長崎市は、イシグロさんの了解が得られれば、一般に公開することにしている。
以上、

いろいろ興味は尽きぬが、あらためて、今のイシグロ氏の長崎への思いが一番大切なのだろう。
イシグロ氏紹介のNHKのアーカイブ含めた訪日時の記録映像を何回見ても不思議な世界に至る。

<生い立ち>
長崎県長崎市新中川町で海洋学者の父・石黒鎮雄と母・静子の間に1954年11月8日に生まれる。
祖父の石黒昌明は、滋賀県大津市出身の実業家で、東亜同文書院(上海あった日本の私立大学、第5期生、1908年卒)で学び、卒業後は伊藤忠商事の天津支社に籍を置き、後に上海に設立された豊田紡織廠の取締役になる。
父の石黒鎮雄は、1920年4月20日に上海で生まれ、明治専門学校(現、国立九州工業大学)で電気工学を学び、1958年のエレクトロニクスを用いた波の変動の解析に関する論文で東京大学より理学博士号を授与された海洋学者であり、高円寺の気象研究所勤務の後、1948年長崎海洋気象台に転勤となり、1960年まで長崎に住んでいた。

長崎海洋気象台では、副振動の研究などに携わったほか、海洋気象台の歌を作曲するなど音楽の才能にも恵まれていた。
母の静子は、長崎原爆投下時10代後半で、爆風による怪我をした。
カズオ氏の幼少期には長崎市内の幼稚園(長崎市立桜ヶ丘幼稚園/長崎市桜馬場二丁目/2012年閉園)に通っていた。
1960年に父が国立海洋研究所所長ジョージ・ディーコンの招きで渡英し、暴風によって発生し、イギリスやオランダの海浜地帯に深刻な災害をもたらした1953年の北海大洪水を、電子回路を用いて相似する手法で研究するため、同研究所の主任研究員となる。

北海で油田調査をすることになり、一家でイギリス南部のサリー州・ギルドフォードに移住、現地の小学校・グラマースクールに通う。
卒業後にギャップ・イヤー(高校から大学に進学する間の期間)を取り、北米を旅行したり、音楽のデモテープを制作しレコード会社に送ったりしていた。
1978年にケント大学英文学科、1980年にはイースト・アングリア大学大学院創作学科に進み、批評家で作家マルカム・ブラッドベリの指導を受け、小説を書き始めた。
卒業後に一時はミュージシャンを目指すも、文学者に進路を転じた。
 

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[ 2017年12月28日 ]

 

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