山路敬介氏寄稿 植村隆VS櫻井よしこ 名誉棄損訴訟と司法消極主義その3
きょうは、(農と島のありんくりん)の植村隆VS櫻井よしこ 名誉棄損訴訟の最終章です。
慰安婦裁判で桜井よしこ氏に負けた植村隆。北海道新聞が負けた植村に有利な偏向報道をしてくれたことを自慢するの巻。
— CatNA (@CatNewsAgency) 2018年11月14日
新聞って、本当に信用できませんね。 pic.twitter.com/EOASjV47hJ
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山路敬介氏寄稿 植村隆VS櫻井よしこ 名誉棄損訴訟と司法消極主義その3
山路氏寄稿の3回目となります。今回で終了です。ありがとうざいました。
この論考で山路氏が指摘されている、「司法消極主義」の復権を印したこの判例は歓迎できます。
司法は万能ではありません。裁判官は超越的審判者ではありません。
あくまでも法の定める範囲と、判例に基づいて謙虚にそれを審判する法律家にすぎません。
しかし伝統的に左派は、政治課題をあえて法廷に持ち込み、有利な判決を勝ち取ることを闘争の火にくべるガソリンとする戦術を多用してきました。
しかも、近年はこれに自ら同調する裁判官も多数現れ、再稼働をめぐる一連の非常識な判決を残して行くことになったのはご承知の通りです。
関連記事「福井地裁判決 司法のひとりよがり」
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そしてこの風潮に便乗して、言論批判を名誉棄損として訴えるような訴訟が相次ぎました。
ひとつがこの植村訴訟であり、今ひとつが朝日が起こした小川栄太郎氏への訴訟です。
関連記事『朝日は「物言えぬ社会」を作りたいのか』
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いずれも、司法が裁く対象にならない政治案件を法廷の場に持ち込んだものです。
裁判官は歴史家でもなければ、モリカケ問題を裁く立場ではありません。
そもそも法律で言論内容は裁けないのです。
できるとすれば、原告の「被害」と言論との因果関係が物証をもって立証された時に限定されます。
たとえば桜井氏が当該論考の中で「植村を社会的に抹殺しろ」などと読者を煽動していたら、判決もまた違ったものとなっていたことでしょう。もちろんそのような事実はありません。
札幌地裁判決は、山路氏が述べるように、植村氏の「被害」と、桜井氏の言論による「名誉棄損」の因果関係を冷静に切り分けた上で、バランスのとれた判決を下しています。
悪しき司法優越主義が跋扈する中、まことに心強い判決でした。
隣国において司法は政府間の条約をも優越するがごとき判決がでている時期に、一服の清涼剤に感じました。
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■ 植村隆VS櫻井よしこ 名誉棄損訴訟と司法消極主義 その3
山路敬介
承前
■ 日本の司法は韓国と違い、正しい「司法消極主義」である事
「司法消極主義」というと、その語感から何やらネガティブなイメージがわくと思いますが、そういうものではありません。
多分に「保守的である」とは言えるでしょうが、むしろ法律の文言やこれまでの判例、立法の精神を逸脱する事はせず、立法府や行政府の判断も尊重し、違憲性が明確でないかぎり突飛な判断を下さない点や、優れた一般常識を有している点で「全国民的」と言えるでしょう。
この対極にあるのが最近の韓国の司法の在り方で、これを「司法積極主義」と呼称する事はいささか判断に迷いますが、まぁ、ご存知のようにああいうものです。
今回の植村名誉棄損訴訟においての原告の植村隆氏の主張は、まことに情に訴える部分と「朝鮮民族に対する無謬性理解」による拡大解釈が多く、かつて前翁長沖縄県知事が「取り消し訴訟」でした「魂の飢餓感」の如くの戯言ような、かつ被害者意識丸出しの拙いものでした。
このような主張は韓国においてならば、そのまま認められて然るものでしょうが、今回の判決は植村氏が受けた「被害」と、「名誉棄損」という法律の運用上確定された解釈を見事に切り分けた優れた判決だったと言えます。
瞥見するところ、米国における合衆国最高裁はリベラル派と保守派に色分けされており、リベラル派が制している時期に数々の新しい価値判断が生まれており、これが日本の潮流にも明らかに影響を与えてます。
これらの判断はおそらく米国民全体のコンセンサスとは言えず、それがゆえに「分断が生まれている」とも言えると考えます。
この問題の所在は、立法府である議会においての議論が低調であったり、または決着がつかない場合において最高裁の多数がそれを決してしまうところにあり、私はそれが米国の衰退に婉曲に大いに繋がっていると考えるものです。(発祥は欧州なのかも知れませんが)
そうしてみると、トランプ氏が最高裁判事を決める権限がある上院で逆風のなか共和党が多数を占める事が現実となった事をして、これを大統領自身が「歴史的勝利」と評したのは、むべなるかなと考えます。
かえりみれば、我が国の左派が提議する訴訟というものは、いつもこの「司法積極主義」を待望し、促すものでした。
しかし、裁判官は万能の「神」ではないし、国民の意思が反映された「選良」でもありません。
そうであれば裁判官において事例に則った、いわゆる「保守的」である事は必須の条件であり、立法府における役割をも裁判官が担うべきではありません。
そうした意味からも今の司法の在り方は肯首でき、今回の判決も納得出来るものだったと考えます。
文責 山路 敬介