朝鮮の王様が消えてしまった日・1
慰安婦問題、竹島問題に最近あらたに日章旗問題で日韓の友好関係が危ぶまれてきていたが、ここにきて偽の元徴用工賠償判決ときては、日韓の友好もへったくれもない。
そもそも日本の朝鮮併合だって日本の領土的野心からだけではない。
きょうは、上間裏 アキヒコ さんのフェイスブックの投稿を読んでみてください。
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上間裏 アキヒコ
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【 再掲:朝鮮の王様が消えてしまった日・1 】
かつて朝鮮半島には、李氏朝鮮という国家がありました。
李王家によって世襲される、中世の王朝国家です。
この国は500年以上も続き、国号を大韓帝国と改め、1910年の日韓併合により消滅しました。
こう書きますと、まるで日本が韓国を併合することで、朝鮮王を滅ぼしたみたいですが、事実は違います。
日本は朝鮮王を大変に尊重し、皇族に準じた扱いをし、日本の皇族と婚姻させ、最後まで支援を惜しみませんでした。
日韓併合によりすべての朝鮮人は日本人となりました。
朝鮮の王も日本に居住し教育を受け、日本の軍人となり、日本国民からも大いに慕われたのです。
李氏朝鮮の王はどんな経緯で消えたのでしょう?
その最後の姿を追ってみます。
●李垠
李垠(りぎん)は1897年、李氏朝鮮が大韓帝国と改称した年に生まれ、先の朝鮮王、純宗(じゅんそう)が即位した時、大韓帝国皇太子になりました。
純宗には子供がおらず、また軽い知的障害があったために、異母弟の李垠が皇太子になったのでした。
李垠は幼少期に日本政府の招きを受けて来日します。
当時の日本政府は、日韓併合による朝鮮半島の統治を検討していました。
李垠は日本で、学習院から陸軍中央幼年学校をへて、陸軍士官学校で教育を受けました。
そして1910年の日韓併合により、大韓帝国は消滅。
李垠は日本の王族として、皇族に準じた待遇を受けることになります。
陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、順調に出世。
1920年には歩兵中尉となり、同じ年に「日鮮融合」のために、日本の皇族の梨本宮守正王の第一王女・方子女王と結婚します。
この一事からだけでも、日本と朝鮮の併合は、朝鮮族を大きく尊重したものだったと分かります。
併合でひとつになった日本と朝鮮の象徴として、王族同士が婚姻関係となったのです。
植民地にして奴隷にするなら、そんなことをするわけがありませんよね。
李垠はその後も軍の出世街道を驀進し、やがて1926年、先の純宗の薨去にともなって、李王家を承継して李王垠となります。
日本の皇族に準じた待遇を受けた李垠は、1930年に赤坂見附に巨大な邸宅を構えます。
後に改装され、赤坂プリンスホテルの旧館となった大邸宅です。
李垠は赤坂見附の豪邸に住み、時には朝鮮の王として、王妃と共に朝鮮を訪問したりしながら、日本の軍人として、
軍事参議官、中将にまで昇進します。
朝鮮の王として、日本で皇族に順した待遇を受け、大邸宅を構え、軍人としてエリートコースを驀進。
この頃が朝鮮王の最後の栄光の時でした。
1945年、日本敗戦。
李垠の輝かしい生涯に暗雲が立ち込めます。
日本国憲法が施行され、王公族制度が廃止され、彼は李王の身位を失ってしまったのです。
また皇籍離脱で日本国籍も失い、無国籍となります。
在日韓国人になってしまった李垠夫妻は、祖国への帰国を試みますが、当時の日本と大韓民国の間に国交はなく、しかも戦後、韓国の大統領となった李承晩が、李垠の帰国を受け入れませんでした。
朝鮮王族の分家出身だった李承晩は、正式な朝鮮王が帰国すれば、自分の地位が危なくなる、と考えたのです。
李垠は1957年に日本国籍を取得するも、祖国への帰国を願い続けます。
やがて韓国では李承晩が失脚。
李垠と同じく日本の軍人であった朴正煕が大統領になります。
1962年、朴正煕の計らいで、すでに病床にあった李垠の韓国籍はようやく回復しました。
翌年1963年、日韓国交正常化交渉がスタート。
李垠は夫婦揃って念願の帰国を果たしますが、病は重く、空港からそのまま病院に運ばれて入院。
1970年、日本で華々しく万国博覧会が開催された年。
最後の朝鮮王、李垠は病院で結婚生活50周年の金婚式を行い、その3日後、帰らぬ人となりました。
李 垠(り ぎん、イ・ウン、朝鮮語: 이은、光武元年(1897年)10月20日 - 1970年5月1日)は、大韓帝国最後の皇太子で、日本の王族、李王(李家当主)。大韓帝国時代の称号は英親王。
参考資料
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9E%A0 他
「安中裏裏伊織のお蔵出し」より
http://iori884.blog.fc2.com/blog-entry-418.html
https://www.facebook.com/
【 再掲:朝鮮の王様が消えてしまった日・1 】
かつて朝鮮半島には、李氏朝鮮という国家がありました。
李王家によって世襲される、中世の王朝国家です。
この国は500年以上も続き、国号を大韓帝国と改め、1910年の日韓併合により消滅しました。
こう書きますと、まるで日本が韓国を併合することで、朝鮮王を滅ぼしたみたいですが、事実は違います。
日本は朝鮮王を大変に尊重し、皇族に準じた扱いをし、日本の皇族と婚姻させ、最後まで支援を惜しみませんでした。
日韓併合によりすべての朝鮮人は日本人となりました。
朝鮮の王も日本に居住し教育を受け、日本の軍人となり、日本国民からも大いに慕われたのです。
李氏朝鮮の王はどんな経緯で消えたのでしょう?
その最後の姿を追ってみます。
●李垠
李垠(りぎん)は1897年、李氏朝鮮が大韓帝国と改称した年に生まれ、先の朝鮮王、純宗(じゅんそう)が即位した時、大韓帝国皇太子になりました。
純宗には子供がおらず、また軽い知的障害があったために、異母弟の李垠が皇太子になったのでした。
李垠は幼少期に日本政府の招きを受けて来日します。
当時の日本政府は、日韓併合による朝鮮半島の統治を検討していました。
李垠は日本で、学習院から陸軍中央幼年学校をへて、陸軍士官学校で教育を受けました。
そして1910年の日韓併合により、大韓帝国は消滅。
李垠は日本の王族として、皇族に準じた待遇を受けることになります。
陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、順調に出世。
1920年には歩兵中尉となり、同じ年に「日鮮融合」のために、日本の皇族の梨本宮守正王の第一王女・方子女王と結婚します。
この一事からだけでも、日本と朝鮮の併合は、朝鮮族を大きく尊重したものだったと分かります。
併合でひとつになった日本と朝鮮の象徴として、王族同士が婚姻関係となったのです。
植民地にして奴隷にするなら、そんなことをするわけがありませんよね。
李垠はその後も軍の出世街道を驀進し、やがて1926年、先の純宗の薨去にともなって、李王家を承継して李王垠となります。
日本の皇族に準じた待遇を受けた李垠は、1930年に赤坂見附に巨大な邸宅を構えます。
後に改装され、赤坂プリンスホテルの旧館となった大邸宅です。
李垠は赤坂見附の豪邸に住み、時には朝鮮の王として、王妃と共に朝鮮を訪問したりしながら、日本の軍人として、
軍事参議官、中将にまで昇進します。
朝鮮の王として、日本で皇族に順した待遇を受け、大邸宅を構え、軍人としてエリートコースを驀進。
この頃が朝鮮王の最後の栄光の時でした。
1945年、日本敗戦。
李垠の輝かしい生涯に暗雲が立ち込めます。
日本国憲法が施行され、王公族制度が廃止され、彼は李王の身位を失ってしまったのです。
また皇籍離脱で日本国籍も失い、無国籍となります。
在日韓国人になってしまった李垠夫妻は、祖国への帰国を試みますが、当時の日本と大韓民国の間に国交はなく、しかも戦後、韓国の大統領となった李承晩が、李垠の帰国を受け入れませんでした。
朝鮮王族の分家出身だった李承晩は、正式な朝鮮王が帰国すれば、自分の地位が危なくなる、と考えたのです。
李垠は1957年に日本国籍を取得するも、祖国への帰国を願い続けます。
やがて韓国では李承晩が失脚。
李垠と同じく日本の軍人であった朴正煕が大統領になります。
1962年、朴正煕の計らいで、すでに病床にあった李垠の韓国籍はようやく回復しました。
翌年1963年、日韓国交正常化交渉がスタート。
李垠は夫婦揃って念願の帰国を果たしますが、病は重く、空港からそのまま病院に運ばれて入院。
1970年、日本で華々しく万国博覧会が開催された年。
最後の朝鮮王、李垠は病院で結婚生活50周年の金婚式を行い、その3日後、帰らぬ人となりました。
李 垠(り ぎん、イ・ウン、朝鮮語: 이은、光武元年(1897年)10月20日 - 1970年5月1日)は、大韓帝国最後の皇太子で、日本の王族、李王(李家当主)。大韓帝国時代の称号は英親王。
参考資料
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9E%A0 他
「安中裏裏伊織のお蔵出し」より
http://iori884.blog.fc2.com/blog-entry-418.html
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[ 2018年11月14日 ]