アイコン 449年前、長崎の街に鳴り響いていた岬の教会の鐘が再び長崎の街に帰ってきた

 

 

岬の教会⛪️(サンパウロ教会)の鐘が作られた1570年とは織田信長全盛期の戦国時代である。

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時の権力者は室町幕府の足利将軍といっても名ばかりで、天下は織田信長の手に渡ろうとしていた。

1570年の日本の大きな事件と言えば織田信長、徳川連合軍と近江の浅井氏、越前の朝倉軍が戦った姉川の戦いがあった年でもある。

九州西域の地方の戦国武将であり日本初のキリシタン大名でもある大村純忠は貿易によって経済力を付けるという狙いもあり、イエズス会のヴィエラ神父を交渉窓口として大村藩領である長崎港をポルトガルに独占的に開港する開港協定を1570年にイエズス会と結んでいる。

翌年の1571年ポルトガル船は中国のジャンク船2隻を雇い水先案内として長崎の港に初めて入港し、旧県庁跡地の下の大波止(現在の文明堂)付近の海岸に投錨している。

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その後、天正7年(1579年)4月27日、大村純忠はイエズス会・ポルトガルとの関係を強固なものにするために長崎・茂木をイエズス会に寄託し、その4月27日を昭和5年、長崎市は長崎開港記念日にしている。

しかし、その前から長崎には中国のジャンク船やら朝鮮半島からも人や物が少ないけど入って来てたようなので、正確には長崎開港ではなく、正しくはポルトガル開港記念日である。その時に、ポルトガルのリスボンで鋳造され、長崎に運ばれてきたのが岬の教会の鐘である。

当時、長崎市馬町(現在の桜町小学校付近)から長崎市役所、長崎市図書館へと続く岬の突端(旧長崎県庁跡地)に建てられたのがサンパウロ教会のちの岬の教会(被昇天聖母の教会)サンタ・マリア教会である。


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今から449年前のことである。

449年前、長崎の街に鳴り響いていた岬の教会の鐘が再び長崎の街に帰ってきた。

現在、私の事務所(16番祈念館)に保管してる写真の鐘には1570年とイエズス会の紋章がはっきりと刻まれている。(長崎浪人・中山洋次)

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[ 2019年2月 8日 ]

 

 

 

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