投稿者=キンシロー
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松本今日、6月30日(月)午前10時頃、長崎県庁に大村市長の松本崇 殿が来庁してた。よほど声を掛けてやろうかとも思ったが、あまりの変わり果てた姿に掛 ける言葉も失った。あれでは9月28日告示の大村市長選に出馬は無理だろうと懸念するほど、気の毒な姿に哀れさへ感じた。ふりむいたらマツモト フミコ様の姿はな かった。

私は止むに止まれぬ思いで 平成23年6月21日、大村市長・松本崇 殿 宛てに、「故遠藤謙二さんを偲んで」。という確認書を郵便局の配達証明で通知している。
 
まさに止むに止まれぬ事情からである。

大村市長・松本崇が平成14年9月30日、大村市長に帰り咲いて最初に手をつけたのが甲斐田前市長派の筆頭部長だった故遠藤謙二の大村市ボート場(現・大村市ボート局)への左遷人事だった。
 
 当時の大村市ボート場といえば赤字続きで市の一般予算で何とかやりくりするという大村市のやっかい者扱いであった。市の実質的なNO3の筆頭部長から、 大村ボート場という閉職に飛ばされた故遠藤謙二の心境といえば想像を絶するものがあった。私は大村ボート場に飛ばされたばかりの遠藤氏にボート場で会った 事があるが、その時に遠藤謙二の男の涙を見た。その遠藤氏が歯を食いしばり、大村市、五島市、時津町、金峰町(鹿児島)、波佐見、天文館(鹿児島)、志布 志(鹿児島)、島原、長洲(熊本)と次々と場外船券売り場(ミニ・ボートピア)を開設、大村ボート場を奇跡のボート場と称賛されるまでに復活させたのであ る。
皮肉にも松本崇の市長としての唯一の功績が故遠藤謙二の大村ボート場への左遷人事であった。
 
後に松本崇は遠藤謙二の左遷人事を自らの功績のように吹聴しているが、そんな嘘は大村市の関係者なら誰でもが知っている大嘘である。
そんな遠藤謙二が病に倒れたのが平成22年10月頃だった。そして翌年の平成23年3月2日、新しく生まれ変わる大村ボート場を見ることもなく遠藤さんは亡くなっている。
 
その悔しさを想うと遠藤謙二は今でも成仏できないでいるんではないだろうか、そんな遠藤謙二が夢にまでみた新装大村ボート場、遠藤さんが新しく生まれ変わ る大村ボート場をどれだけ心待ちにしていたか私は本人の言葉で何回も聞いて知っている。遠藤さんは亡くなる半年前に私にこう言った「中山さん、私は平成 27年に大村ボートの新装オープンの時までここの局長でいたい」それだけ遠藤謙二の新装大村ボートへの思い入れは強かったのである。
 
そんな遠藤謙二さんが平成23年3月2日に壮絶な殉職を終えてから、早々新しい局長人事に諫早市のガス屋の会長を使い口を出してきたのがマツモト フミコである。
マツモト フミコは局長人事に味を占めると次は建設利権に口を手を出してきた。あそこと組め、あれを入れろ、これを使えである。その殆どが諫早市内のマツモト フミコの恩人、友人、愛人ばかりといわれている。
 
 私は一度は封印しようかと悩んでいたこの大村市長・松本崇 殿 宛ての「故遠藤謙二さんを偲んで」。という確認書を遠藤謙二の無念さを痛切に想い公開す ることにした。それは故遠藤謙二の遺言であり、弔いでもある。私も故遠藤謙二も大村市長・松本崇 殿もマツモトフミコ様も絶対に許すことができない。
 
次回からは「故遠藤謙二さんを偲んで」。という確認書を20回に分けて連載して行く。