この記事は橋本剛さんのFBの投稿を参照しております。

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ここまで書いてきて、おそらく多くの人の胸に、こんな引っかかりが残っていると思う。
「理屈は分かる。でも、元官僚って信用できるのか?」
これは、もっともだ。
そして、この疑問を軽く扱ってはいけない。
なぜなら、元官僚不信は、感情論ではなく“経験”から生まれているからだ。
国は、地方の声を聞いてきただろうか。
制度は、現場の実情を救ってきただろうか。
多くの人にとって答えは「ノー」だったはずだ。
だから、「国の論理を知っている人」
と聞いた瞬間に、「結局、国側の人間じゃないか」という警戒心が生まれる。
これは正しい防衛反応だと思う。
ただ、ここで一つ、切り分けて考えなければならないことがある。
官僚であることと、官僚の論理しか使えないことは、同じではない。
問題だったのは、制度そのものよりも、「誰も責任を引き受けない構造」だった。
前例がない。
所管外だ。
地元の合意が必要だ。
そう言いながら、決断を先送りし続けてきた結果、地方は疲弊してきた。
では、元官僚が全員、その構造の“守り手”なのか。
私はそうは思わない。
むしろ、その構造がどこで生まれ、どう固定化されているかを
一番よく知っているのが、内側にいた人間だ。
もし、平田研さんが知事になったとき、期待されているのは
「国の言い分を代弁すること」ではない。
国の逃げ道を塞ぐことだ。
これは、外から石を投げるだけではできない。
中で使われてきた言葉、論理、手続き、その“弱点”を知らなければならない。
同じことが、鈴木史朗市長にも言える。

二人とも、**国土交通省**を「神殿」としてではなく、組織として、制度として、現実として見てきた。
だからこそ、期待すべきなのは「従順さ」ではない。
裏切れるかどうかだ。
国の論理を、地方のために使い倒せるかどうかだ。
元官僚だから危険なのではない。
元官僚なのに、「何も変えようとしない」ことが危険なのだ。
この選挙で問われているのは、肩書きへの信頼でも、不信でもない。
この人は、どこで責任を引き受けるのか。
その一点だ。
JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次