アイコン また盗賊に盗人させるのだろうか 元暁大師『判比量論』写本

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現存する最古の韓国人の著述とされる、新羅の元暁大師(617-86)の『判比量論』。同書の未公開の断簡(抜け落ちがあり、一部だけが残った書物)が、東京で発見された。

元 暁が55歳のとき(671年)に記した同書は、完本が伝わっておらず、全体の8分の1程度が京都の大谷大学に所蔵されている。書誌学者の鄭在永韓国技術教 育大学教授は「ばらばらになっていて、これまで学界で全く知られていなかった『判比量論』の断簡9行を、東京の個人収集家の所で発見した。

大谷大学が所蔵している『判比量論』と同一の筆写本」と発表した。

韓日両国の研究者による新資料調査の際、単独同行取材を行った。断簡の大きさは縦27.1センチ、横14.2センチ。流麗な草書体で書き流してあった。古書収集家の落合博志・国文学研究資料館教授は「およそ10年前、京都のある古書店から購入した」と語った。

 今回発見された『判比量論』の筆写本にも、新羅時代の読みを振った角筆が残っており、注目されている。
小林芳規広島大学名誉教授は、白い手袋をして特殊な照明装置(角筆スコープ)で調査した後「裏打ちの過程で角筆の跡が鈍ってはいるが、3ヶ所以上に角筆の痕跡がはっきりと見られる。大谷大学所蔵本にはなかった、新羅時代の梵唄符(ぼんばいふ。読経する声の高低、長さなどを示す符号)もある。本格的な研究を始めれば、もっと多くの角筆の痕跡と、その意味を探れるだろう」と語った。

鄭在永教授は「漢字の右下に『吐』を書き添えて読むやり方など、奈良・東大寺に所蔵されている新羅写経『大方広仏華厳経』に残された角筆と字形、記入法がそっくり」と語った。
以上、

<韓国は崇儒廃仏の李王朝4代目により仏像仏典のほとんどが焼き討ち処分された>

韓国人の研究者たちが動くと何か胡散臭い考えが出で来るようでならない。

当然、日本が大昔に韓国から持ち出したものであり返せと・・・言わんばかりに・・・。すでに日本にある多くのこうしたものが韓国側にリストアップされ、その多くを返せと日本政府や持ち主に依頼している。

当然、返す道理はない。

1392年から1910年間で朝鮮を統治した李王朝は、これまでの高句麗王朝が庇護し栄えた仏教を初代の李成桂太祖が崇儒廃仏を唱え、4代目の世宗が仏教廃絶を両班たちを使い強行に推進させた。結果、全国に当時何千・何万ヶ寺を、世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合させ、18ヶ寺を除いてすべて破却した。

その際、欲深い両班たちは、仏像や仏典を倭寇に叩き売り、ぼろ儲けしたとされるが、ほとんどの寺は焼き討ちに処せられ、仏典や仏像が破壊し尽されたとされる。

韓国に古い仏像がほとんどないのは、韓国人が崇拝する第4代世宗が破壊させたからである。あっても、生き残りを許された禅宗系の18寺院の仏典・仏像しかないはずだ(戒律が厳しい禅宗にあり、他宗派の仏典や仏像を崇めるはずがない)。

韓国の歴史は、僧侶も家族一族もろとも処刑するという徹底した廃仏を行うところに、今もその血が脈々と流れている。李承晩が戦後、朝鮮の混乱期に同胞を共産党のレッテルを一方的に貼り、殺戮の限りを尽くしたように・・・(4.3済州島大弾圧事件)。
 この世宗は、調子に乗り対馬に攻め込んでいるが、結果、逆打ちにあい逃げ帰っている。
 こうして、高句麗時代に親交があった日本へ多くの仏典や仏像が日本へ渡った。当然、日本へは、遣隋使・遣唐使などより中国から多くの仏典仏像が直接もたらせたものも多い。

そのため、日本に多くの中国や朝鮮から渡ってきた仏典仏像が多く存在する。

そうした中に、倭寇が両班たちから購入した物も多くあるが、ほとんどは中央ではなく、倭寇の本拠地松浦党(唐津・松浦半島・平戸一帯)に関係した地域に多く残されている。対馬の韓国製仏像もそうした経緯があると断定できよう。

日本の対馬から本物の韓国盗賊たちが、仏像や仏典を盗んだが、犯人はすぐ警察に捕まったが、まだ仏典や仏像は国家が管理し、拉致したままにしている。・・・仏様を返せ。

[ 2016年4月20日 ]
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