アイコン 中津城/5000万円で売り飛ばす 哀れな奥平の殿様

中津城時は戦国時代、三河の一小豪族であった奥平氏は、長篠の戦いで徳川方に付き家運を開いた。
一方、中津城は1577年黒田如水が豊臣秀吉から、豊前6郡16万石を与えられ築城に着手する。しかし、1600年、関ヶ原の戦いの戦功により52万石を与えられ名島城に転封したことにより建設半ばで中断。変わって細川家が豊前豊後32万石を与えられ入封して築城を進め完成させた。また細川家は小倉城も築城した。細川家は1632年熊本藩に転封になり、豊前の中津が独立して小笠原家が6万石で入封、同時に小笠原家一族は、ほかに小倉城や豊後杵築城にもそれぞれ入封した。

1717年徳川家の信頼があつい奥平家が、豊前国中津城に10万石で入封して今日に至る。お城は1877年西南戦争で消失、1964年になり本丸跡地に殿様の子孫が鉄筋コンクリートお城作りの天守閣とやぐら殿を建立して今日に至っている。現在の奥平の殿様は、入館料の収入が建物修復費用に追いつかず、売却を検討(所有者は殿様が経営する中津勧業、土地は敷地内にある神社の宗教法人(殿様)が所有)していた。

<中津城売却へ>
 奥平の殿様は、2007年ころ中津市に引き取って欲しいと売却話を持ちかけた。そのため双方が不動産鑑定を実施。殿様側は約1億96百万円、市の鑑定は約1億39百万円と60百万円も評価に開きが出た。殿様は約1億5千万円まで譲歩したとされているが、市側がさらに、耐震診断実施を申し入れた。ところが、殿様は、診断結果によって市の鑑定価格がさらに減額される可能性があるとしてそれを拒否、交渉を打ち切った。
中津市の難癖に、殿様は怒って一般入札にすることを決定。その後いろいろ考えた挙句、建物のみの売却を図ることにした。また売却条件に、引き続き歴史博物館として運営することを条件に入れ、10月4日埼玉県で「デイサービスセンターふじ」などを経営する㈱千雅に5千万円で売却することを決定した。
㈱千賀の代表は中津城の・・代目の当主となった。

中津市の対応も間違ってはいない、しかし、中津市の観光名所はお城と福沢諭吉旧邸くらいしかないのも事実である。中津市の堅物の担当部長と殿様は、今後の成り行きによっては中津城の1577年からの歴史に汚点を残すことも考えられる。
中津市には観光名所ではないがダイハツの生産工場もある。

[ 2010年10月 5日 ]
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