アイコン 引っ張り合い凧の韓国朴大統領  韓国の建国史

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朴大統領は13日予想通り10月16日米国を訪問することを発表した。15日の光複節では米国オバマ大統領や中国習近平国家主席から祝賀のメッセージが寄せられ、喜び浸っている。

今 度は、目先の現実問題は9月3日の中国の軍事パレード、中国政府は、戦前北京にあった少人数の韓国の亡命政府の老朽化した建屋を約7千万円かけ修復してプ レゼントするとしている。また共産党の機関紙は、軍事パレードに参加した場合、その臨時政府のリニューアル式開催を提案。なんなら、北朝鮮の金正恩とも会 談することも提案している。

そこまでされ、行かない訳にはいくまい。

以上、

 

ここまで、中国様の誘いを断る理由もなく、出席する可能性が高い。

ただ、亡き親父の大統領は、日本の士官学校を出、日本軍(満州軍)に属し、戦時中は、臨時政府の輩を追放していた張本人であることも忘れてはなるまい。
それでも親父は要領がいいのか大戦終了後、満州軍が解体され帰国、その後北京にあった臨時政府に一時加わってはいる。


<韓国建国と李承晩>

1945年2月のヤルタ協定にて、日本の統治下にあった朝鮮の米英中ソ四国による信託統治が決定された。ヤルタ会談と米軍との秘密協定に基づき、ソ連軍は8月9日の対日参戦後速やかに朝鮮半島の北緯38度以北を占領した。
1945年8月15日に大日本帝国がポツダム宣言を受託した後、解放された朝鮮半島では国内に残っていた呂運亨(李承晩一味が暗殺)、在鴻などの活動家により朝鮮建国準備委員会(建準)が樹立され朝鮮人民共和国の設立が宣言された。
しかし、同1945年9月8日に仁川に上陸したアメリカ軍によって建準は解体され、朝鮮半島南部は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁により、日本の植民地統治機構を一部復活させての直接統治が実施された。

その後1945年12月にモスクワで開催されたモスクワ会議にて朝鮮半島の信託統治が協定されると、連合軍軍政期の朝鮮半島南北全土でこの信託統治への賛否を巡って抗争が勃発し、アメリカ軍政下の南部では李承晩、金九ら中華民国の重慶から朝鮮半島に帰還した大韓民国臨時政府系の右派が信託統治への反対(反託)を、呂運亨ら左派が信託統治への賛成(賛託)を打ち出して対立が激化した。

1946年1月にソウルで開催された米ソ共同委員会は、米ソ対立から同年5月8日に無期限休会となり、更に南部の再建朝鮮共産党は、アメリカ軍政なより非合法化させ、9月には朴憲永などの指導者に逮捕に動き、朴憲永は北朝鮮臨時人民委員会が樹立されていた北部に越北し、平壌から南朝鮮労働党を指導して右派との抗争を行わせた。
1947年に第二次米ソ共同委員会が決裂した後、朝鮮問題は国際連合に持ち込まれ、ソ連が国連朝鮮委員団の入北を拒否した為、米国主導の国際連合は、南部単独での総選挙の実施を決定、金九、金奎植らによる南部単独での総選挙反対を押し切って1948年5月10日に南部単独で初代総選挙が実施させ、形ばかりの制憲憲法を経てマッカーサーの傀儡政権である李承晩を初代大統領とし、1948年8月15日に朝鮮半島南部のみを実効支配したまま大韓民国を建国した。

朝鮮半島南部単独で大韓民国が建国された翌月の1948年9月9日に、大韓民国の実効支配が及ばなかった38度線北の朝鮮半島は金日成首相の下、朝鮮民主主義人民共和国として独立した。
互いに朝鮮半島全土を領土であると主張する分断国家は、それぞれの朝鮮統一論を掲げ、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金日成首相は建国翌日の9月10日に最高人民会議の演説で「国土完整」を訴え、一方、大韓民国(南朝鮮)の李承晩大統領は軍事力の行使をも視野に入れた「北進統一」を唱えた。
互いを併呑しようとする両政府は1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争によって、実際に民族同士の仲違いの戦いを交えるに至った。
当初軍事力で優勢なソ連軍+中国共産党軍が支援した北朝鮮軍が南朝鮮に攻め入り、優位に展開、国民を放り出しソウルから一番先に逃げ出したことで有名なのが李承晩大統領であった。

国連軍=アメリカ軍が本格的に参戦して、北朝鮮軍を38度線まで押し戻し、自らの力もない李承晩は、マッカーサーにけしかけ38度線を越えさせようとしたが、米政府は38度線を休戦ラインとして停戦させた。
マッカーサーは反共人として、アメリカ留学経験もあり、英語にも精通していた李承晩を最大限利用、南朝鮮内の反政府勢力の大弾圧に対して黙認した。その延長戦上に日本に対しても李承晩ラインを設定し、竹島を略奪するとともに、日本漁船の拿捕や漁船の略奪も黙認した。マッカーサーは大戦中、植民地としていたフィリピンでアメリカに逃げ帰るという日本軍に屈辱を浴びており、日本に対し、個人的な腹の虫も収まらなかったと見られる。
マッカーサーは、北朝鮮に対峙させるため、反共で狂気の李承晩の権力志向を最大限利用、北朝鮮を睨むうってつけの人物として利用した。

李承晩は、1960年(昭和35年)4月19日(4月革命) – 憲法を無視した不法選挙を糾弾する学生を中心とするデモ隊を大弾圧、死者186人に出し、その後の国民の運動で、同年5月29日にハワイへ亡命、2度と祖国韓国に足を踏み入ることも許されなかった。また、平気で自国民を殺戮する独裁者で、不法選挙で終身大統領=李王朝創設気取りの大統領でもあった。韓国の憲法違反になる3選を韓国の国会議員たちが、李承晩の求めに応じ、認めたことに4月革命は起因している(どこの国も今も昔も一緒のようだ)。
1948年の済州島の4.3事件でも5万人ともされる島民皆殺し虐殺事件を実質指揮したことでも知られる。
 

[ 2015年8月17日 ]
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