アイコン ランボーは日本人だった!(舩坂弘軍曹物語)

舩坂弘軍曹舩坂弘軍曹

感動です。多くの日本人に読んで頂きたい。
最後まで読んでから楽しい週末をお過ごしください。 
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 シルベスター・スタローンの「ランボー」といえば、2008年にも「ランボー最後の戦場」が公開された、いわずと知れた大ヒットシリーズです。ところが映画の主役のジョン・ランボー顔負けの大活躍をした日本兵がいます。
お名前は、舩坂弘軍曹。
大正9年のお生まれの方です。

■パラオ・アンガウル島の戦い

昭和19年3月、23歳で除隊を目前にした舩坂氏は、宇都宮歩兵第59連隊軍曹として、パラオ・ペリュリュー島南西のアンガウル島に着任しました。
アンガウル島は、東西2.5km、南北3kmほどの小さな島です。米軍はここを占領し、飛行場を作ろうとした。同年9月11日、米軍が来襲します。

開戦から5日間にわたり米軍は、まず空母ワスプから発進した爆撃機で島の絨毯爆撃を行った。次いで戦艦テネシーから、島の形が変わるくらいの激しい艦砲射撃をした。そして9月17日、米陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西の二面から海岸に上陸します。

島を守っていた守備隊の日本軍は、わずか1400名の中隊です。
小さな平たい島です。内陸部に誘い込んでの戦いはできません。日本軍は、はじめ上陸しようとする米軍を水際作戦で迎え撃ちます。

このとき舩坂軍曹は、擲弾筒および臼砲で米兵を200人以上殺傷します。しかし兵力差は15倍、装備も劣る日本側に勝ち目はありません。
水際作戦で中隊が壊滅するなか、舩坂軍曹は、筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続けた。そうすることで米軍の足を止め、退却する中隊の隊員たちを守ります。
米軍は陸続と上陸してきます。日本軍は、大隊残存兵力を島の北西の洞窟に集結させる。
ここから先はゲリラ戦です。

戦い3日目、舩坂軍曹はひん死の重傷を負ってしまいます。米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。

場所は敵陣のど真ん中、味方が助けようにもすぐには助けれられない。
押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂のもとに、ようやく軍医がやって来ます。

傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、もはやこれまでと、舩坂軍曹に自決用の手榴弾を手渡して去ってしまう。

おまえはもう死んでいる、と宣告されたようなものです。「負けるもんかっ!」舩坂は近くにあった日章旗で足を包帯代わりに縛り、夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きます。
着いた時には、死体が這ってきたような姿だったのですが、この舩坂軍曹、並みの体力気力ではありません。翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるまで回復してしまった。

舩坂軍曹はその後も何度となく瀕死の重傷を負い、動くこともままならないような傷を負っても、不思議と翌日には回復しています。ご本人は「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と笑っておいでだったそうですが、ほとんど人造人間もどきの体力です。

舩坂軍曹は、栃木県西方町の農家の三男坊で、子供のころからきかん気でガキ大将だったそうです。長じては剣道と銃剣道の有段者。また中隊随一の名射手でもあった。気迫と集中力の素晴らしい人だったようです。

■不死身の分隊長

舩坂軍曹は、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けます。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒した。

ある日は、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させ、突き殺した。まさに鬼神の如き奮戦です。
舩坂軍曹を見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」、「鬼の分隊長」と形容したといいます。
しかし、食料も水もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相となっていた。
舩坂自身も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまった。

さらに腹部の傷が化膿し、ハエがたかって蛆(ウジ)が湧いた。舩坂軍曹は、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意します。

このときの舩坂の体調は、死の瀬戸際です。立って歩けない状態になっていることはもとより、極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなくなっていた。彼は遺書を書きます。

■遺書を書く

「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、敵を目前にして戦士するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。
七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。
 陸軍軍曹 舩坂弘」

【原文】若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ

自決を決意した舩坂は、手にした手榴弾を引き抜きます。自爆しようとした。ところが手榴弾が爆発しない。思いに反して手榴弾が不発だったのです。
なぜ死ねないのか、なぜ死なせて貰えないのか。
舩坂はこのとき、深い絶望感を味わったといいます。

このときも洞窟には、絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましています。
周囲は、傷の痛みに呻く声が満ちている。
数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂は、絶望から気を取りなおします。そして、どうせ死ぬならその前に、せめて敵将に一矢報いんと、米軍司令部への単身での斬り込みを決意します。

そして拳銃弾から中の火薬を取り出すと、その火薬を腹部の患部に流し込み、火をつけた。貫通創です。腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いている。その両側から炎が噴き出します。このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。

意識を取り戻した舩坂軍曹は、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ます。

■決死の斬り込み

当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していた。
そのまっただ中を、舩坂は数夜這い続け、米軍前哨陣地を突破し、指揮所周辺さえも突破してしまう。そして4日目には、米軍指揮所テントにあと20Mの地点にまで到達します。

舩坂は、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めます。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきた。指揮官たちが集まったのです。

舩坂は、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかった。まるで血まみれでボロボロの幽鬼にしか見えなかった。

それもそのはずです。このときの舩坂軍曹は、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所の重傷を負い、更に連日の戦闘による火傷、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいた。

全身血まみれ、服はボロボロ。人間に見えたら不思議なくらいです。
米軍の動揺を尻目に、舩坂は司令部目掛け渾身の力で20Mを突進します。
そして指揮所テントに到達し、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、首を撃たれて昏倒してしまう。

倒れた舩坂のまわりに集まった米兵たちは、あきらかに戦死と判断します。全身血まみれで首を撃たれているのです。生きていると思うほうがどうかしている。駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断し、舩坂を野戦病院に運んだ。

このとき軍医は、手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語ったそうです。

死体置き場に3日間転がされていた舩坂は、そこで息を吹き返します。死体の山の中からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍った。
そして舩坂に銃口を向けます。
銃口にゆっくりと向かってきた舩坂は、銃口に自分の身体を押し付けた。そして「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」とうなり声をあげた。

不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化します。
米軍は、舩坂の無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈った。

■ペリュリュー島に移送

ペリリュー島に残された戦車ペリリュー島に残された戦車

元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。

一命を取りとめた舩坂は、米軍の治療で数日で歩けるまでに回復し、となりのペリリュー島に送られます。闘志の衰えない舩坂は、そこに居並ぶ米軍の飛行機を見て「よし!いつかはあの飛行機をすべて破壊してやる」と心に誓います。

ペリリュー島に送られた2日目、重傷者であり監視が甘かったのを幸いに、舩坂は夜陰にまぎれてこっそり収容施設を抜け出した。ちょうどペリリュー島の日本軍最後の拠点である大山が占領される前の日の夜のことです。

舩坂は、千Mをほふく前進します。途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから、彼は小銃弾を67発集め、火薬を抜きます。そしてその火薬を導火線にすると、米軍の火薬庫に火をつけた。火薬庫は大爆発を起こし、次々に別の棟へ爆発が移った。島の米軍火薬庫の弾薬はすべて燃え尽きてしまいます。米軍は、犯人不明でこの事件を迷宮入りさせています。
舩坂は、火薬庫の爆発を見届けると、こっそりとまた収容所に戻ります。

収容3日目の夜、舩坂はこんどは歩哨を殺して銃を奪います。そして夜陰にまぎれて歩哨の背後に忍び寄った。あと5メートルというところで、背後から「ヘーイッ!」といきなりタックルをくらった。舩坂も必死に抵抗します。しかし相手は米兵の大男です。まだ怪我の治らない舩坂に勝ち目はない。

舩坂はぐるぐる巻きにされ、収容所の柱にくくりつけられた。米兵の大男が顔を真っ赤にして「死に損ないの気狂いめ」と英語で罵って舩坂に銃を向けます。銃殺される。これで楽になれる。そう思った舩坂は、目を閉じた。

ところが舩坂の耳に聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語だった。
「神様ニマカセナサイ。自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。アナタハ神ノ子デス。アナタノ生キルコト、死ヌコト、神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂をそのままにしてテントを出て行った。

■大男との出会い

翌日、縄を解かれて放置された舩坂は、懲りずに飛行場炎上計画を練り始めます。そして炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを手に入れた。マッチがたまったある日、以前自分を捕まえた大男がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えた。歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないという。

今夜こそがチャンス。舩坂はその夜、秘かにテントを出ると、ほふく前進で有刺鉄線を越えます。
「よし、あとすこしだ。」そう思って頭を上げると、そこに例の大男が立っていた。舩坂は拳銃を突きつけられ、テントに戻されてしまいます。

「殺せ」という舩坂に、大男はこう言った。
「アナタガ歩哨ニ私ノ日程ヲ、タズネタコト、私ニ連絡キマシタ。アナタガ何カ計画スルトシタラ今夜ト思イ、私ハ仕事ノ途中ダケレド、切リ上ゲテ帰ッテキマシタ」
そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話し、こう続けた。
「アナタハ私ガ帰ッテコナケレバ、即座ニ射殺サレタコトデショウ。私ハソレガ心配デ大急ギデ帰ッテキタノデス。無事デヨカッタデス」

さらに大男は、舩坂の無謀な行動を戒め、「生きる希望を捨てるな」「死に急ぐな」と説いた。そして「アナタニハ私ノ言ウコトガワカラナイカ」と問うた。舩坂は「わからない」と意地を張った。しかし舩坂の心に、その大男の人間味あふれる言葉が心にしみいった。
舩坂ら捕虜は、ハワイへ送られることになった。一団を乗せた上陸用舟艇がペリリュー島を離れようとしたとき、いつもの大男がやってきた。
そして「軍曹、死ンデハイケナイ。生キテ日本ニ帰リナサイ。私ハ軍曹ガ無事ニ日本ニ帰レルヨウ神ニ祈リマス」そう言って彼は一枚の紙片を軍曹の渡した。それには彼の名前が記されていた。
「F.V.CRENSHAW」
舩坂はその名詞をポケットに入れたのだけれど、次の収容所でMPに取り上げられてしまった。
舩坂はペリリュー島捕虜収容所から、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々とし、昭和21年に帰国します。

■帰国した舩坂弘

帰国したは、舩坂は栃木の実家に帰った。実家では、舩坂は戦死したものと思われていた。
アンガウル島守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日。昭和20年12月には、舩坂の実家に戦死公報が届けられていたのです。

ボロボロの軍衣で帰還した実家で、御先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、仏壇に真新しい位牌があって、そこに「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていた。
「弘って字があるけど、これ俺のこと?」
村の人々も、帰ってきた舩坂の傷だらけでボロボロの姿を見て、これは幽霊に違いないと噂した。しばらくのあいだは、物の怪の疑いで見られていたといいます。

そして舩坂が故郷に帰って一番初めに行ったことは「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことだったそうです。

戦後、舩坂は、焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前の養父の地所に、わずか一坪の書店を開きます。そしてこの書店が、日本で初めて建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」に発展する。

彼は書店経営の傍ら、「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」「血風 二百三高地」「ペリリュー島 玉砕戦」「サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦」「硫黄島‐ああ!栗林兵団」「殉国の炎」「聖書と刀‐太平洋の友情」「関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密」などの本を著わします。

剣道を通じて親交があった三島由紀夫には、自慢の愛刀、関の孫六を贈っている。関の孫六は、のちに三島割腹自殺の際の介錯に用いられています。

また、ペリュリューで世話になった大男、CRENSHAW伍長にも何とか連絡を取りたいと考え、米軍関係者になんと110通もの手紙を出しています。ようやく連絡がとれたCRENSHAWとは、生涯の友となった。

舩坂は、他にもアンガウル島に鎮魂のための慰霊碑を建立し、以後、戦記を書いてはその印税を投じて、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。書店経営の忙しさの中で、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を毎年欠かさず行っています。
さらに他遺族を募っての慰霊団の引率、パラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流開発などを精力的に行っている。

舩坂が築いたアンガウルの慰霊碑慰文には、次のように記されています。

尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます。

まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘軍曹。
そして戦後は一転して亡くなられた仲間たちのために生涯をささげられた舩坂弘氏。
かつての日本には、こういう男がいたのです。
日本人って、すごいですね。 

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日本の心をつたえる会 日心会  

 
[ 2010年7月18日 ]
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