アイコン オランド新フランス大統領の経歴と政策及び今後の欧州の課題

オランド新フランス大統領オランド新フランス大統領
サルコジ大統領は「もっと働いてもっと稼ぎましょう」というスローガンを掲げ5年前に大統領に選出された。小泉のように市場競争の原理をフランス国民に定 着させることによって経済の活性化を図ろうとした。しかし、08年に発生したリーマン・ショックにより世界経済は大失速、フランス経済も打撃を受けた。そ れにより失業率もショック前の7%台から9.4%(2012年3月、2009年は9.1%)と高くなり、雇用・景気、財政赤字の回復の見通しが立たなく なっていた。そうしたなかサルコジは、財政赤字の改善へ向けた緊縮財政へ駒を進めた。
しかし、日本の民主党が嘘つきマニフェストで民主党政権を国民が誕生させたように、競争原理導入による国民の疲弊から、社会党から選出されたオランド候補 が、「弱者や庶民の生活を第一」を打ち出し、雇用増大、教育重視、年金給付制度の改正などの政策に重点を置き、選挙戦を優位に戦った。
具体的には、オランド候補は2017年までには公務員6万人の雇用増をはかり、その多くを幼稚園・小学生教育部門での雇用とした。また新学期の児童手当25%増額、60歳時点での年金満額給付などの政策を打ち出している。
高い失業率により大統領選に望む国民の声も、失業問題や社会保障問題を40%近くに上っていた。
一方、その財源についてオランダ候補は、富裕税(ISF)を引き上げ、100万ユーロ(約1億円以上)の年収に対して75%の高い税率を適用するという政策により実現させるとした。
そうしたことから、オランド候補が、現行のサルコジに雇用や社会保障で不満を持つ、国民から喝采を浴び、選挙戦で優位に駒を進め、6日の大統領決戦投票においても、オランド候補が勝利をおさめた。

<EU大国フランス大統領の交代と欧州経済>
本日(7日)どれほど株価が落ちるか不明であるが(4日までの下落で織り込み済みとする見方もある)、これまでEU27ケ国の財政再建問題をドイツのメンケル首相とサルコジ大統領は、2人を称してメンコジと言われるほど、緻密な関係でEU再建に向けてこれまで動いてきた。やっと大筋でギリシャ問題、イタリア問題を片付け、スペイン問題を片付けられる態勢に至っていた。
今回、景気対策に財政出動型のオランド候補が仏大統領に決定して、新仏大統領は、EU各国ごとの財政再建を第一義にするメンケルとの関係にヒビが入ることは免れない。
そうしたことから、ギリシャ・イタリア・スペインの財政問題が再浮上し、EUによるEU各国の財政赤字問題を解決できなくなるのではという懸念が持たれている。(最悪はハゲタカの米格付会社が人気取りのため、性急に仏ほかを格下げする可能性)
オランド候補も選挙戦終盤、現在EUで決定している財政の取り決め条項は尊重すると表明、但し景気対策条項も盛り込んでもらうとしている。
フランスとドイツはEUの中でも群を抜く大国であるが、両国の経済状況は異なっている。ドイツは車をはじめ輸出企業が経済を引っ張っているが、フランスはリーマン・ショック以降低迷したままとなっている。失業率も異なる。

フランスの経済成長率(実質) 2012は推定
失業率
2007
2008
2009
2010
2011
2012
2011
2.23
-0.2
-2.63
1.38
1.72
0.48
9.68
ドイツの経済成長率(実質) 2012は推定
 
3.39
0.81
-5.08
3.56
3.06
0.62
5.98
 
<オランド新大統領の経歴>
フランソワ・オランド(François Hollande、1954年8月12日生)は、前フランス社会党第一書記であり、国民議会議員。
セーヌ=マリティーム県ルーアン出身。耳鼻咽喉科の医者ジョルジュ・オランドを父に、ソーシャルワーカーのニコール・トリベールを母に生まれる。パートナーであった政治家、セゴレーヌ・ロワイヤル(前大統領候補)との間に4人の子供がいる。
パリ政治学院(通称:シアンス・ポ)で法学士の学位を取得、同校でフランス全学連の委員長を務める。
1974年、パリのHEC経営大学院(HEC)に入学、フランソワ・ミッテラン支援委員会の委員長を務める。
1979年、オランドは社会党に入党。
1980年、国立行政学院(ENA)を7番目の成績で卒業、会計監査院の検査官となる。ジャック・アタリの後押しにより、フランソワ・ミッテランの参事官となる。
1981年、ジャック・シラクの対立候補として国民議会選挙に立候補するが、第1回選挙で敗退。シラクが50%以上の得票率であったのに対し、オランドの得票率は26%でしかなかった。しかし、ミッテランの大統領選勝利によって、側近であるオランドは大統領官邸での任務(経済問題)を担当。
1983年、ピエール・モロワ内閣で次々に現れた2人のスポークスマン、マックス・ガロとロラン・デュマの官房長となる。同年、市町村議会選挙に立候補するが敗れ、ジャック・シラクの選挙区である(コレーズ県)ユセルの市町村参事会員となる。
1984年、派閥争いに嫌気がさし、数人の友人、特にジャン・イヴ=ル・ドリアン、ジャン・ピエール=ミニャール、ジャン・ミシェル=ガイヤールなどと共に社会党の超派閥集団を結成。
1988年、ミッテランの大統領再選の後、コレーズ県第1選挙区で53%の得票数を得て国民議会議員に当選。同年から1991年まで政治学院で第3学年の学生に経済学を教える。
1990年、レンヌの党大会でモロワ=メルマッズ=ジョスパンの動議を支持。
1993年、国民議会議員の任期を終了すると、1997年までジャック・ドゥロールの政治集団「クラブ・テモワン」を主催する。現在、彼は名誉会長を務める。会計監査院行政官としてのオランドは、弁護士職と同等の資格を持っており、暫くの間、友人のジャン・ピエール=ミニャールの事務所で働く。
1994年、彼は社会党全国書記、経済問題担当となる。ジャック・ドゥロールが大統領選への立候補を断念した後、リオネル・ジョスパンに接近する。ジョスパンは自らの大統領選キャンペーンの、また1995年10月には社会党のスポークスマンにオランドを起用した。 
多元的左翼勝利の後、1997年、フランソワ・オランドは再び代議士(得票率54%以上をもって)となり、ジョスパンも首相に指名された。ジョスパンは自らの後継者として社会党第一書記の地位をオランドに託した。
1999年、オランドは欧州議会議員に選出され、社会主義インターナショナルの副議長に選出された。
2010年10月に行われた予備選の決選投票で、現第一書記であるマルティーヌ・オブリーを破り、大統領選の公認候補に選出された。
2012年5月6日に行われた大統領選挙決戦投票でサルコジ現大統領を破り、新大統領に当選した。(経歴はウィキ参照)
[ 2012年5月 7日 ]
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