アイコン 噂の「かつ江(渇え)さん」公開中止 残念

かつ江(渇え)さん鳥取市は、鳥取城跡マスコットキャラクターの次点に選ばれた作品「かつ江(渇え)さん」を7月7日から、同市ホームページ(HP)で公開した。豊臣秀吉の軍勢から兵糧攻めを生き延びた庶民の女性が、カエルを手に困窮している姿をイメージしている図柄だ。
「かつ江さん」は鳥取市教委から「籠城戦マスコットキャラクター」に採用された。
その後、賛否両論があったものの「かつ江さん」は既に全国で話題となっており、もう成功したも同然。だが、残念ながら、公開が中止されてしまった。(ヒットさせるためにも公開中止の時間稼ぎが必要だった)
お歳よりは戦中や戦後直後、食べるものがなく、少しの米を水増しした雑炊ばかり食べていた人たちも多い。そうした人たちは、蟹雑炊さえ思い出すとして食べようとしない人もいる。

ただ、時代は大きく変わっており、観光資源としての歴史を語る上でも公開は継続すべきだったろう。暗いイメージが嫌だというが、そういう人ばかりではない。図柄であり、ゆるキャラではないのだから。
「かつ江(渇え)さん」は兵糧攻めどころか反対する庶民により殺されてしまった。

二度にわたる秀吉の鳥取城攻略の兵糧攻め 織田と毛利の戦い
1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3ヶ月の籠城戦(この時の籠城費用は全て山名豊国が負担)の末、9月山名豊国は和議により織田信長へ降伏、臣従した。
ところが、同月毛利の来訪で再度の降伏して毛利方に、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。
この時点で山名豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。
城主の牛尾は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏重臣・吉川経家を城主に迎える。

同年4月、因幡守護・山名豊国は織田へ密使を送るが、密使が八頭郡私部市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。
残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなる。
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。
陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。
このとき鳥取城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4ヶ月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。
信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。 城主・吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。
(城主の出来が悪ければ庶民が苦しむことになる。経営も一緒)
鳥取城には、自決した吉川経家の銅像が建立されており、自決と引き換えに開城したことから評価され、鳥取の庶民に語り継がれてきたのだろう。

<観光コース>
号泣議員の空出張地として有名となった日本海に面する兵庫県豊岡市城崎温泉(志賀直哉の城崎にて)にて体も心も癒し、一路西へ向かい鳥取市の鳥取温泉へ、左に大山を見ながら島根県方面へ、ベタ踏み坂を上り魚や蟹が旨い境港、安来節を踊るもよし、宍道湖の蜆を食べ精を付け、縁結びの神様がおいでの出雲大社にお参りして帰還するふらっと2泊3日コースはいかがだろうか。

[ 2014年7月10日 ]
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