令和8年3月30日、長崎県議会は、2月8日投票の知事選において「特定の候補者の陣営に深く関与し、議会の代表者としての節度と中立性を放棄した」などとして、外間雅広議長に対する不信任決議を賛成多数で可決した。
≪長崎県≫『外間雅広議長不信任案可決』に思う。第2弾
令和8年3月30日、長崎県議会は、2月8日投票の知事選において「特定の候補者の陣営に深く関与し、議会の代表者としての節度と中立性を放棄した」などとして、外間雅広議長に対する不信任決議を賛成多数で可決した。

もっとも、この不信任決議には法的拘束力はない。地方自治法では議長の任期は4年と決まっているから、辞めなくても法律違反にはならない。だから本人も強気なのだろう。「法的には問題ない」と。
たしかにその通りだ。法的には問題ない。
しかし政治の世界には、法律とは別に「政治的責任」と「信任」という、もっとやっかいで、もっと重たいものがある。
46人の県議会で27人から不信任を突き付けられるということは、会社で言えば取締役会の過半数から「あなたはもう社長として認めません」と言われたようなものだ。それでも「私は社長だ」と言って社長室に座り続けることはできるかもしれない。だが、誰も言うことを聞かない社長に、何の意味があるのか。
地方自治法では、議会は過半数の出席がなければ開会できない。過半数は23人。不信任に賛成したのは27人。つまり、その27人が出席しなければ議会は開けない。議会を開けない議長。これほど見事なブラックジョークもなかなかない。
しかも今回の不信任は、野党だけではなく、与党である自民党議員まで連名で提出している。つまりこれは「野党に嫌われた議長」ではなく、「議会から見放された議長」ということである。
それでもなお「議長としての重責を果たしていく」と語る。
重責とは、周囲から信任されて初めて背負えるものであって、背中を向けられたまま一人で背負うものではない。
ここまで来ると、「議長の職責に誠心誠意取り組む」という言葉も、「議長という椅子に誠心誠意しがみつく」と聞こえてしまう。
法的には辞めなくてもいい。
しかし政治的には、もうとっくに終わっている。
それでも椅子に座り続ける自由はある。
ただしそれは「議長」として座っているのではない。
誰からも信任されていない議長の椅子に、一人で座っている人がいる、というだけの話である。
県議会が止まるか、議長が辞めるか、どちらかの二択である。
普通の政治家なら、ここまで来たら自分が身を引くことで議会を正常化させる道を選ぶ。それが「責任を取る」ということだからだ。

それでも辞めないというのなら、もはやこれは責任感ではなく、単なる議長というポストへの見苦しい執着そのものである。
JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次