アイコン 基地外国の韓国 対馬は韓国領だと 朝鮮日報記載

朝鮮日報が次のように報じている。
日本が強制的に占領した対馬返還を求める運動を展開する忠清北道槐山郡の市民団体「対馬奪還本部」が27日から29日まで対馬を訪問する。
 訪問するのは、同郡に住む約10人のメンバーと外部からの参加希望者約20人で、2泊3日の日程で対馬を訪れ、領土紛争に関する理解を深める。
  一行は朝鮮王朝末期に抗日義兵闘争を率いたとして、対馬に連行されて殉国した崔益鉉(チェ・イクヒョン)先生の葬儀が行われた修善寺(対馬市厳原町)と対 馬藩主の養子、宗武志と朝鮮王朝の高宗(コジョン)の娘、徳恵翁主(トッケオンジュ)の結婚奉祝碑などの史跡を訪問する。
 団体関係者は「今回の対馬訪問は独島(日本名・竹島)の領有権だけをめぐり、日本と対立している状況で、全国民に『対馬返還要求運動』への賛同を求めるために行うものだ」と説明した。

同団体は2012年10月10日に中原大学(槐山郡)で発足式を行い、対馬返還要求運動を本格化した。
1945年7月のポツダム宣言で、日本は対馬が韓国領であることを認めた。李承晩(イ・スンマン)大統領は、就任から3日後の48年8月18日に記者会見を開き、対馬を韓国に返還するよう、日本政府に強く要求した。
以上、朝鮮日報(韓国最大の新聞社)

ポツダム宣言のどこに韓国領だと日本が認めた公文書があるのか、デタラメ抜かす韓国最大の新聞社朝鮮日報である。韓国の民度が疑われて仕方がない。

元寇(文永の役1274年、弘安の役1281年)の時、フビライ脅され、元寇の最前線に立ち、九州本土に来る途中、対馬や壱岐で皆殺しにし、家々を焼き尽くしたのは朝鮮人たちである。元寇時代の高麗王国はモンゴル帝国の属国だったのは史実だ。
その後、その恨みから松浦や壱岐・対馬で生き残った日本人たち(主力は松浦党)が、朝鮮へ攻め入ったのが倭寇の始まりであることは歴史が物語っている。664年には日本は防人を対馬に配していた。

<魏志倭人伝>290年ころ記載されたもの
中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられている書物であるが、魏志倭人伝によると、
帯方郡(韓国中西部)から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(釜山辺りか)に到着する。
(ここから日本)
始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗、副官は卑奴母離。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
また、南に瀚海(対馬と壱岐の間の対馬海峡)と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国(壱岐国)に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。
また、海を1000余里渡ると、末廬国(松浦国)に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
以上、金印や卑弥呼が登場する魏志倭人伝が記された280年ころの記録書だ。

韓国の・カどもは何を言い出すか、中国はおろか世界中が驚いている。朝鮮最大の新聞社の朝鮮日報が、史実を捻じ曲げ、自ら対馬は韓国領だと主張しているのは驚きの一言。隣国として付き合うのが疎ましく思えてならない。
以上とは別に、韓国政権に言いたいことは、10万人とも言われる金銭奴隷の売春婦の世界各国への輸出だけは即時止めてもらいたいものだ。

[ 2014年11月 5日 ]
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