掘られているのは海底だけではない。行政への信頼まで削られている。
玄界灘の海砂採取問題について、長崎県はいつまで「一部業者の問題」で済ませるつもりなのか。
これは、単なる採取船の位置確認や業者指導の話ではない。
長崎県と佐賀県の境界をまたぐ資源管理の問題である。
漁場と海洋環境を守る問題である。
≪第八弾≫玄界灘の海砂は、誰のものなのか。
掘られているのは海底だけではない。行政への信頼まで削られている。
玄界灘の海砂採取問題について、長崎県はいつまで「一部業者の問題」で済ませるつもりなのか。
これは、単なる採取船の位置確認や業者指導の話ではない。
長崎県と佐賀県の境界をまたぐ資源管理の問題である。
漁場と海洋環境を守る問題である。
許可、採取枠、補償、漁協との関係、行政処分、監視体制をめぐる、長崎県政そのものの問題である。
そして何より、長崎県が海砂採取業界に対して、あまりにも甘すぎるのではないかという問題である。
玄界灘の海底は、県民の目には見えない。
海の上から眺めても、どこが掘られ、どれだけ削られ、どのような穴が残されているのかは分からない。
見えない。
だから、ごまかせる。
見えない。
だから、境界線を越えた、越えていないという水掛け論に持ち込める。
見えない。
だから、採取量や採取位置、業者への配分、処分の妥当性まで、行政の説明ひとつで済ませることができる。
だが、海底が見えないからこそ、行政には厳格な監視責任がある。
県議会には、徹底して調査する責任がある。
それにもかかわらず、長崎県議会の観光生活建設委員会は、本当に十分な調査を行っているのだろうか。
業者別の許可量を確認したのか。
採取船のGPS記録や航跡データを精査したのか。
佐賀県との境界付近における採取実態を調べたのか。
違反が疑われる業者に対し、誰が、いつ、どのような指導を行ったのか確認したのか。
行政処分が軽すぎなかったのか、検証したのか。
漁協幹部や関係者に流れる補償金、協力金などの実態を調査したのか。
これらを調べずに、「県から説明を受けました」「適切に対応していると聞いています」で終わるのであれば、県議会は調査機関ではない。
土木部の説明を読み上げる、単なる追認機関である。
『玄界灘と共に生きる会』の浪口志郎会長らは、玄界灘で生活し、海の変化を肌で感じてきた人たちである。
机上の数字だけを見ている県職員とは違う。
許可書だけを眺めている県議とも違う。
実際に海に出て、魚を獲り、潮の流れを知り、海底の変化を感じながら暮らしてきた人たちである。
その人たちが、県境付近における海砂採取の即時停止や原状回復を求めている。
にもかかわらず、長崎県議会が本気で動かないのであれば、県議会は誰の声を聞いているのか。
海で生きる人たちの声か。
県民の声か。
それとも、一部の海砂採取業者や業界団体、漁協幹部の声なのか。
ここを曖昧にしてはならない。
玄界灘の海砂は、有明商事グループの所有物ではない。
葵新建設の所有物でもない。
許可を受けた一部業者が、半永久的に採取できる既得権でもない。
長崎県土木部が、業界内部の事情に合わせて配分するための資源でもない。
漁協幹部が補償や協力金を引き出すための交渉材料でもない。
もちろん、特定の人物の飯の種でもない。
玄界灘の海砂は、公共性の高い有限の自然資源である。
漁業者の生活を支える海底環境の一部であり、地域住民の共有財産であり、次の世代に引き継がなければならない自然そのものである。
一度削られた海底が、簡単に元へ戻る保証はない。
採取によってできた海底のくぼみが、潮流、生態系、漁場形成にどのような影響を与えるのか。
県は十分な調査を行ってきたのか。
長期間にわたり海砂を採取し続けながら、「深刻な影響は確認されていない」と言うだけなら、それは調査ではない。
影響を確認しようとしてこなかっただけではないのか。
海砂採取を続ける側が調査を行い、その結果を行政が受け取り、行政が「問題なし」と判断する。
この構図では、誰が本当に海を守るのか。
業者が提出した資料を業者寄りの制度の中で審査し、その結果を県議会が追認する。
これでは、監視する側と監視される側の境界まで曖昧になってしまう。
県境だけではない。
行政と業界の境界線まで、消えかかっているのである。
長崎県に改めて問いたい。
なぜ、海砂採取業者ごとの採取量、許可区域、航跡データを全面公開しないのか。
なぜ、県境付近で問題が起きた経緯を、時系列で県民に説明しないのか。
なぜ、違反が疑われる行為に対する処分が、その程度で済んだのか。
なぜ、採取資格が一部の業界団体や既存業者に事実上限定される仕組みが続いているのか。
なぜ、海砂の県内需要と許可総量に大きな隔たりがあるのか。
誰のための総量なのか。
誰のための許可制度なのか。
誰のための海砂行政なのか。
そして、観光生活建設委員会の県議に問いたい。
申入書を受け取っただけで、仕事をしたつもりになってはいないか。
土木部の説明を聞いただけで、調査を終えたつもりになってはいないか。
県民の代表として、業者名、採取量、違反内容、行政処分、補償金の流れまで踏み込んで調査する覚悟はあるのか。
県議会議員の仕事は、行政の説明にうなずくことではない。
行政が隠したがる資料を出させることである。
業界が触れられたくない問題を質問することである。
声を上げにくい漁業者や住民に代わり、権力に問いただすことである。
それができないのであれば、県議会という看板を掲げる意味はない。
玄界灘は、黙っている。
しかし、何も語っていないわけではない。
海底に残されたくぼみ。
変わった潮の流れ。
漁獲の変化。
境界線付近を行き来する採取船。
積み重ねられた許可書。
繰り返される業者への甘い処分。
これらすべてが、この海で何が行われてきたのかを物語っている。
掘られているのは、海底だけではない。
長崎県政への信頼も削られている。
県議会への期待も削られている。
漁業者が海で生きていく権利も、将来世代が豊かな海を受け継ぐ権利も、少しずつ削られている。
海砂採取業者は、許可を受けているから掘れるのではない。
県民から預かった自然資源を、厳格な条件の下で、一時的に利用することが許されているにすぎない。
その大原則を忘れた時、許可は権利に変わる。
権利は既得権に変わる。
既得権は利権に変わる。
そして利権は、行政も議会も黙らせる。
今、長崎県に求められているのは、言い訳ではない。
全資料の公開である。
第三者による調査である。
採取船の航跡、採取量、許可区域の徹底検証である。
佐賀県との共同調査である。
採取枠と総量規制の抜本的見直しである。
違反業者に対する厳格な処分である。
必要であれば、県境付近での採取を全面停止し、海底環境の回復状況を調べるべきである。
玄界灘の海砂は、誰のものなのか。
有明商事グループのものではない。
葵新建設のものではない。
一部の漁協幹部のものでもない。
長崎県土木部のものでもない。
県議会議員のものでもない。
玄界灘の海砂は、海に生きる人々のものであり、県民のものであり、まだ生まれていない将来世代のものである。
それを理解できない行政に、海を管理する資格はない。
それを追及できない県議会に、県民を代表する資格はない。
今こそ、海底を掘る手を止め、真相を掘り起こす時である。
玄界灘の海砂は、誰のものなのか。
長崎県は、これ以上逃げずに答えなければならない。
JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次