アイコン 【投稿】笑っちゃいます/「菅直人総理」へまっしぐら

投稿名=お遍路

「菅直人総理」へまっしぐら

小鳩政権の自滅 笑っちゃいますよね。
菅直人 ウィキペディアより
1946年10月10日、山口県宇部市に菅寿雄(セントラル硝子で常務、監査役を歴任)と母・純子の長男として出生(本籍地は岡山県御津郡建部町(現・岡山市北区)。宇部曹達工業(セントラル硝子の前身)工場長だった父の転勤に伴い、三鷹市下連雀に転居した関係で、山口県立宇部高等学校から東京都立小山台高等学校に編入学し卒業。

一留して1970年に東京工業大学理学部応用物理学科卒業。東京工業大学在学中には、政治サークル「現代問題研究会」を創設して「全学改革推進会議」のリーダーとして活躍。
その後「市川房枝」の選挙事務所代表を務め、選挙参謀として市川の当選に尽力したことが政界入りのきっかけに。1976年の第34回衆院選に東京7区(当時)から無所属で立候補し落選、こうした活動が江田三郎の目に止まり、誘われる形で社会市民連合に参加。 1977年の第11回参院選では社会市民連合から出馬したがまたも落選、1979年の第35回衆院選では社会市民連合から名称を変更した社会民主連合から出馬しまたも落選したが、1980年の第36回衆院選で初当選。土地問題などを中心に市民派の政策通として頭角を現した。
1981年には丸山ワクチンの不可思議な不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せた。社会民主連合では主な役職として1978年副代表、1985年に副書記長兼政策委員長を務めた。国鉄分割民営化では民営化支持を表明した。
橋本内閣のとき、厚生大臣として薬害エイズは行政責任と官僚の猛反対を押し切り認めた。また大臣時代、産業廃棄物の四国の豊島(てしま)にも乗り込んでいる。
ディベート力では追随を許さない論客、しかしちょっと腰が曲がってきているのでは・・・
 
菅民主代表(当時)は、自民党の国会議員の年金未納問題を追及していたが、菅自身の厚生大臣時代の年金未払い記録が明らかとなった。菅は行政側のミスであると何度も主張したが、行政側がその都度強く否定、マスコミ報道等による世論の風当たりにより、同年5月10日に党代表を辞任せざるを得ない状況に追い込まれ辞任した。
上記写真はそのときの禊の四国四十八ヶ所のお遍路参りでの写真である。
[ 2010年6月 3日 ]
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