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投稿者=sengoku38
http://cds.269g.net/archives/200908-1.html 
2009年08月30日

切り裂かれた日の丸

国家選択

選挙には行きましょうね、なんて言葉をたくさんかけていた自分、触れないわけにもいかない選挙が終わりました。
僕自身、もう少し日本という国の民度の高さに期待していたんですが、塵と消えました。

政権選択選挙、なんてわけのわからない、内容の伴わない言葉でドラマチックに彩られた選挙が終わり。
めでたく中国・韓国の手先のような、民主党の圧勝とあいなりまして。
ただただ残念です、ぶっちゃけた話、ね。

国旗を切り刻んで党旗を掲げる民主党。
党員が韓国で反日デモに参加していても何も言わない民主党。
日本は日本国民だけのものではない、と言ってはばからない民主党。
果ては、友愛、国家権の移譲、外国人には参政権を、ときたものだ。
彼らの言う、友、とは中国や韓国のことだろう。
彼らの言う東アジア共栄圏、の中に日本という国は存在するのだろうか。

そういった事を一切報道しない腐り果てたメディア。
中川昭一氏の辞任のあたりから、マスコミどもは、かの「椿事件」を地でいくような、諸手を挙げての偏向報道。

美名悪法である「人権擁護法案」に、唯一真っ向から反対したのは誰だったのか。
世界がひれ伏す米国の「バイ・アメリカン政策」に対し、公式の場で唯一批判をしたのは誰だったのか。
世界の政府機関が「人類の歴史上、最大の貢献」と評した大英断を下したのは誰だったのか。
全てが中川昭一氏のことだ。

かたくなに「そんなことは一切報道しないメディア」のおかげで、国民のほとんどは彼を「酔っ払い会見の人」なんてイメージしか持っていない。
あの『酔っ払い会見』の裏で(というよりは本当は表なんだけど)、前述したような「人類の~」なんて功績を、一体どのくらいの人が知ってると言うのだろうか。
そして、彼をその「酔っ払い」にしたてあげたのは読売新聞社の記者だったのでは、なんてことは、当たり前に絶対に報道されない。
ちなみに、この会見、全てを見ると実際は報道で扱われたシーン程に内容のない会見ではない。
興味あれば見せます、18分ちょっとの会見映像。個人的に言って下さい。偏向報道、の意味がよくわかります。少なくとも、今この国のメディアの上層部には、もはやジャーナリズムなど存在していない。

『民主党が大幅に議席を伸ばして政権交代を果たすかが最大の焦点 』
選挙期間中、メディア媒体で、何度この言葉を目にしたことか。
対して『自民党が議席を確保して政権を維持出来るかが最大の焦点』なんて言葉は、ここのところメディアでは一切目にしませんでした。
マスコミの主人公はいつだって民主オンリー。

終わったことを悔いても仕方がない、っていう言葉もあるけれど、それは違う、と言い切れる事もあると思う。
はっきり言って、僕は選挙戦に関して、あまりどちらがどうだ、なんて事はブログには書くつもりはなくて(ミクシーでは少し書いたけれど)。
終わった今、やっと書ける、という今。
いろいろなものが噴出していてすいません。

ただね、僕は冒頭に書いたように、日本国民の民度、って言葉は聞こえが悪いけれど、能動的な政治参加やメディアの偏向になんてそこまで流されやしない人間性ってものを信じてました。
この想いも、はっきり言って僕自身のエゴの固まりなわけで、だからこそ選挙戦が終わるまでは、こういう場所では封印していたんですが。

残念です、ただただ。

でも。
もう手遅れ、な部分があるのも否めないけれども、まだ間に合う、部分があるってのも本当の話。
だからこそ、今こうして、つらつらと書いてます。
僕は腐っても表現者なので。というかもちろん腐ってもないので。

唐突ですが、中国という国は、日本人が思う程、中途半端な国じゃありません。
中国の李鵬は『20年後に日本はなくなる』と、公の場で公言しています。
日本民族をウィグルやモンゴルやチベットのようにされてたまるか。
インドネシアでは「中国系を侮辱する行為の禁止法」なんてもんが、今年6月に制定されてます。
いや、冷静に考えて狂ってるって。なんてのは僕だけが感じる事じゃないはずです。

はっきりと言います。
投票率と結果、そして推移を見て取る限り、今回の選挙は完全に
投票した全員がマニフェストをしっかり読んだ、なんてもんじゃいない。そんなわけがない。
もしそうだとしたら、僕は日本では生きていく自信がありません。本音です。

あんなマニフェスト、実行できるわけがない。
そして、実行されちゃ困る法案が、ありすぎる。

締めの言葉なんて、今日は持ち合わせちゃいないけど、これからどうなるのか。どうするのか。
人それぞれが何を考え、何を感じ、何を信じたのか、それは自由だとは思います。
だけど、だからこそ、民主主義国家に生きる人間としての責任を、皆が持ち続けていければいいな、なんて思います。

民主主義なんてのは、所詮数の暴力でもあります。
その「数」の中身の一部でも、本当のこと、から生まれたものではないとしたら、悲しい、以外に何もないじゃないですか。
音楽も絵画も演劇も娯楽も、全てがいつまでも自由なままとは限らないんですよ。
だから僕は、必要以上と言われようが何だろうが、僕で在り続けようと思ってます。

あと、最後に一応ですけど「自分がどこに投票したかを公言する」のは、いけないことなので、そのあたり、皆様重々お気をつけ下さい。
バランスが難しい、って方は、今日の日記に限ってはコメントもやめといた方がいいかと思います。
くだらない論議をするつもりもありませんので、荒らしコメントもどうかお控え下さい。

国政批判や、自民擁護、民主批判、メディア侮蔑。
いろんな匂いのする文章だけど、本質はそこじゃなくて。
僕が言いたかったのは、試合はいろんな意味で、フェアじゃないと価値がないって事。
もう一つは、人間はそれぞれに、最終的には己の判断で生きないとね、って事。
ほんと、それだけなんだよな。

長文、お付き合いどうもありがとうございました。

[ 2010年11月10日 ]
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