アイコン 回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」プロローグ・新進党の解党。⑫

2016年、4月15日以降に発生した、熊本県を震源とする地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された多くの 皆さまに心よりお見舞い申し上げます。また、今尚、避難生活を余儀なくされている6万人を超える人達が1日も早く通常の生活に戻れるよう心より祈念いたし ております。

回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」の日刊セイケイ誕生までの長~いプロローグを思い出すまま勝手に書いています。読んで頂ければ幸いです。⑫

西岡武夫氏が所属していた当時(1997・平成9年)の新進党は、ウィキペディアで検索すると現在の共産党が主導する民共が共闘する現在の民進党、共産党・社民党、生活と山本太郎となかまたち、の国民連合政権構想にどこか似ていて興味深いものがある。

この時の新進党の幹事長こそ西岡武夫氏であった。西岡氏にしてみれば党が存亡の危機に瀕している時に幹事長の自分が、己の都合で党を見捨てて長崎県知事選に出馬するなど潔しとしない、有り得ない選択だった。だが、結局、新進党は同年12月27日、年末の慌ただしい中で解党してしまった。

(ウィキペディア)で当時の新進党を振り返ってみると、つい最近のような気もするが、あれから20年近い歳月が流れている。今や自民党の実力者となった二 階俊博氏、次期総理の筆頭といわれた石破茂氏も新進党からの出戻りであり、まだまだ枯れていない小沢一郎氏、亀井静香氏と懐かしい顔ぶれが活躍していた時 代だった。

(ウィキペディア)で少し当時を思い出してみてください。今の政治状況と比べてみると案外参考になります。

新進党(しんしんとう)は、1994年末から1997年末にかけて活動した日本の政党。55年体制成立以後、自由民主党以外で初めて日本社会党を上回る数の国会議員を擁する政党であった。

結成までの経緯

新進党1994年(平成6年)6月の自由民主党・日本社会党・新党さきがけによる村山富市内閣の発足で下野した非自民・非共産勢力は、次期総選挙で施行される小 選挙区比例代表並立制への対応に迫られていた。小選挙区で自民党に対抗するためには野党各党が合流して各選挙区で候補者を1名に絞らなければならず、新・ 新党を結成する流れが一気に傾き、新生党・公明党の一部・民社党・日本新党・自由改革連合などが結集し、同年12月10日、結党された。理念は「自由、公 正、友愛、共生」。

党結成に関して、新生党の代表幹事であった小沢一郎(当時:新党準備委員会委員長)は「保守党」と名付けることを希望したが、周囲の反発により断念した。 初代党首選挙は、自由改革連合代表の海部俊樹元首相、新生党党首の羽田孜元首相、民社党委員長の米沢隆の3名で争われ、海部が勝利した。
結成時の所属国会議員数は214人(衆議院176人、参議院38人)である。結党時の国会議員数が200人を超える政党が結成されたのは、1955年(昭和30年)結成の自民党以来39年ぶりであった。

公式の英語党名は、当初「New Progressive Party(新進歩党)」とする案も出されたが、異論があり「New Frontier Party (新開拓地党)」となった。公式の略称は新進、NFPとされた。日本の英字紙であるジャパン・タイムズは公式英称をあまり用いず、ローマ字名称の 「Shinshinto」を多く用いた。
1995年(平成7年)7月の第17回参議院選挙において改選議席の19議席から40議席へと議席を倍増させ、比例区の得票では自民党の獲得票を上回る躍進を見せた。

相次ぐ党内対立

1995年(平成7年)12月の海部党首の任期満了に伴い行われた党首選において、羽田孜と小沢一郎が激突し、小沢が党首に就任した。海部と争った前回の 1994年(平成6年)12月党首選に続き敗退した羽田の支持グループはこれ以降、党運営を巡り小沢との対立を深めていくことになる。
1996年(平成8年)10月の第41回衆議院総選挙では政権交代を目指し、野党第一党としては38年ぶりに衆議院議員定数の過半数の候補者を擁立した。 消費税率を20世紀中は据え置くことや、減税およびそれに伴う経済の活性化による財政再建を公約の目玉にするも、解散前議席に届かなかった。
主な敗因として、
自民党・新進党・民主党の候補者による三つ巴の戦いで反自民の票が割れた結果、自民党が勝利した小選挙区が多かったこと(重複立候補を原則行わなかったため、多くの小選挙区でわずか1万票前後の差で野党候補の落選者が出た。)
自民党、特に亀井静香と白川勝彦による新進党の有力支援組織である創価学会に対する反創価学会キャンペーンの存在。

西岡公明や支持母体の創価学会が一部選挙区(東京5区や神奈川11区など)で新進党候補者(反創価系の新進党候補者)へ投票せず独自投票を行い、事実上の分裂選挙になったこと。
増税を推進する自民党や民主党に所属していながら候補者自身は増税反対と主張するなど、政党の公約と個人の公約にねじれがあり、有権者を混乱させたこと (消費税をなくす会の調べによると、自民党から当選した239人のうち108人、民主党から当選した52人のうち32人が、消費税引き上げ問題に関して反 対もしくは見直しと公約したという)

解党、分裂へ
総選挙後、羽田・細川護煕らの離党や自民党による引き抜き工作により求心力を失いつつあった小沢執行部は、自民党との大連立構想、いわゆる保保連合構想を 模索し、自民党内で自社さ派の加藤紘一・野中広務に対抗する保保派の梶山静六・亀井静香との関係強化を図った。しかしこれに対し、自民党に取り込まれると 党内から反対論が吹き出し、小沢の求心力をさらに失わせる結果となった。
1997年(平成9年)11月、旧公明党のうち新進党に合流していない参議院議員・地方議員を中心とする政党・公明が新進党への合流を取りやめ、1998年(平成10年)の第18回参議院選挙に独自で臨むことを決定した。
同年12月、小沢党首の任期満了に伴い党首選が行われ、小沢党首と鹿野道彦元農水相の一騎打ちとなり、小沢が再選した。小沢は純化路線に進むことを決断 し、同月27日に両院議員総会を開いて新進党の分党と新党の結成を宣言した。これによって新進党は消滅し、自由党・改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明 クラブ・国民の声の6党に分裂した。

[ 2016年4月26日 ]
 

 

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