アイコン 回顧録「日刊セイケイ斯く戦ヘリ」県北から県知事を!⑲

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金子励ます会農業行政のエキスパート松岡利勝代議士(元農水大臣・平成19年5月28日歿)との運命の出会いまであと6ケ月、長崎の鬼っ子といわれた日刊セイ ケイ誕生まであと1年10カ月、平成10年1月15日(1998)長崎の地は西岡武夫VS金子原二郎氏による2月5日(2月22日投開票)に告知される長 崎県知事選に向かって選挙ムード一色に染まっていた。

告示まで一月を切った中での西岡武夫氏の知事選出馬という圧倒的劣勢の中、私とSはどうしたら西岡氏の劣勢を挽回できる可能性を模索していた。

当然と言えば当然なことだが金子氏の地盤である県北の状況は西岡陣営にとって絶望的だった。西岡2分、金子8分と言っても大袈裟ではなかったくらい金子陣営の勢いは凄かった。

特に佐世保市内は県北地区から初の長崎県知事誕生に執念みたいなものがあった。
候補者は誰でもよかったのだ。県北から初の県知事をと、異常なほどの燃え上がりだった。
西岡氏が強いと思われていた島原半島でも金子氏は着実に支援を広げていた。
五分五分とみられていた県央地区でさえ金子氏優勢が伝えられていた。
県内全域にいる自民党の県議、市議や各地域支部などを総動員し、徹底した党営選挙を展開していた。
 長崎市内は辛うじて6分4分とみられていたが、周辺の野母町、三和町、香焼町、高島時津町、多良身町の各首長達も自民党県連に踏み絵を踏まされていた。辛うじて伊王島町の池下守町長だけは堂々と西岡武夫を支援していた。
長崎市議会議員で西岡派として動いている市議は私が知る限り、東長崎の中村七男市議と久米直市議の二人だけという寂しさだった。

私は東シナ海に沈没したままになっていた金子原二郎氏の出身母体である金子漁業(現在の東洋漁業(金子岩久社長)長崎市)所属の巻き網漁船・第七蛭子丸の19人の遺体を引き上げろ、と主張する特集記事を環境タイムス特別号として発行することにした。
私は京都に住んでいる環境タイムスの編集長(相談役)だった佐藤輝氏(現在は京都政経調査会・主催)に電話し、西岡武夫氏の県知事選出馬の意向を告げ、西 岡公男氏との会談の内容を電話で報告した。そして、西岡武夫氏を応援したいと告げた。佐藤氏の反応は予想通り「今頃出ても勝てへんやろう」。と、あっさり したものだった。

0516a.jpg前年の平成9年2月に起きたエンマキ商事横領事件を取材した経験のある佐藤氏は誰よりも金子原二郎氏に対して懐疑的だった。そのエンマキ事件から半年過ぎ た頃に金子氏の県知事選出馬意向を知った時には「こんなもんありえへんがな。長崎はどうなってんねん」。って、呆れていたのも佐藤氏だった。私と佐藤氏の 年齢は一回り離れていたが、反体制というところで意見はいつも一致した。反体制といえば体裁がいいが、ようするに体制の中に入れないでいるハグレ者同士 だったわけである。「日刊セイケイ・中山小六(洋二)」

[ 2016年5月16日 ]
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