アイコン 憤怒中毒の韓国民に警鐘鳴らす 慶熙大学教授 憤怒の調整機能消失

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集団ヒステリー、ご都合主義の政治家と未来図も描けないマスコミが結託して、韓国民を洗脳し、扇動して憤怒国家に仕立て上げる。

<ホ・ウソン慶熙大学哲学科教授は次のように述べている。>
憤怒の大韓民国、怒れる市民! 韓国のこの冬を端的に描写する言葉だ。
メディアは、ろうそくデモ報道で、憤怒の自然さ、正しさ、堂々さを挙げ、数えきれないほど憤怒を礼賛してきた。
多くの人は、大統領の法違反と国民の信任に対する背信を考慮すると、憤怒しなければむしろ「非正常」とも言う。

だが、私たちは経験で、憤怒が有用でありながらも危険な感情であることをよく知っている。
うまく扱えば、そのエネルギーを建設的に使用でき、誤って扱えば、憎しみ、呪い、破壊と殺人、いや戦争の奈落にまで落ちることになりかねない。

<賢者たちは・・・>
そのため、古今東西の数多くの賢者がその危険性を指摘してきたし、韓国のメディアもやはり最近までも憤怒を、しっかり調節しなければならないと話してきた。

憤怒の純粋機能を認めた代表的な哲学者の中に、ギリシャのアリストテレスがいる。
自身や知り合いが侮辱された時に怒るのは当然だ。そうでなければ愚かな人、自己防御もできない奴隷的な人とみなされる。
だが、この哲学者は、怒る時に、5つの基準を守るべきと考えだ。
1、憤怒してしかるべきこと、
2、憤怒してしかるべき相手、
3、憤怒の強さ、
4、憤怒のタイミング、
5、しかるべき持続時間
がまさにそれだ。
5つの基準は理性からくる。

憤怒という感情と理性のバランスを、しっかり維持すれば「中庸の性格」を持った者と賞賛を受けると彼は付け加えた。

ところで、ヒンズー教・仏教思想は、アリストテレスとは違い憤怒に対しとても厳格な態度を取る。特に仏教は、憤怒(瞋)を無知と貪欲とともに三毒の一つで除去の対象とみなす。
こうした仏教の立場では、たとえ「公憤」だとしてもそれが憎しみや暴力を招くならば、そこに同調し難い。
1950年に中国の人民解放軍が、東部チベットに侵攻した後インドに亡命してきた14代ダライ・ラマが代表的事例だ。
彼は、毛沢東を含む中国共産党指導部に憤怒の代わりに慈悲を送ると言い、彼らのために祈るともした。

<韓国の憤怒>
侵略と不正に対する抵抗の歴史が、私たちに憤怒という感情に対し、親近感を感じさせたのだろうか?
卞栄魯の詩「論介」の最初の小節が、そのような関連性を察しさせる。「偉大な憤怒は、宗教よりも深く、火がつく情熱は愛よりも強い」。
偉大な憤怒-究極的な自己犠牲を伴うこうした憤怒は、ろうそく側にも太極旗側にも探すのが難しい。

<メディアに憤怒制御機能はあるのか>
メディアも憤怒に対する懸念があることはあった。
憤怒の昇華、祝祭、非暴力平和、成熟した市民という用語がその証拠だ。
もちろん、許しと和合よりは、「革命的浄化」を図らなければならないという主張を展開したメディアもあった。
特に、ろうそく民心を「自分のこと」とみなして、大統領の座を手に入れようとする政治家らは、ろうそくデモを触発した憤怒を、最も人間的で純粋な感情と呼んだり、デモ参加者を偉大なイエスに例えたりもした。
心中が見え透いた行為だ。

<憤怒の心理的実態>
憤怒が扱いにくい理由の一つは、
それが、私たちの内面で起き、時には私たち自身の姿に偽装して、人をたびたび憤怒中毒に陥らせるためだ。
中毒は、強迫になってしまった習慣で、中毒に陥った人は、それを統制することはできない。

そのため、憤怒中毒に陥れば、憤怒が主人になり、憤怒する人は、ゾンビのようになる。

中毒になった憤怒は、私たちの心身に習慣、または一つの精神的遺伝子になって合理的行為を妨害する。

憤怒中毒を防ぐには、政治家ほどにメディアの役割が重要だ。「戒厳令を宣言せよ」とか「○○○を処刑せよ」というスローガンはもちろん非正常だ。

だが、悪口が込められた18ウォンの送金や「バカ言ってんじゃないよ」という悪口も、やはりいくら痛快に見えても、例外であり正常ではない。

<政治家やマスメディアに対する警鐘>
政治家やメディアが、後者を正常扱いすれば、市民は扇動されてしまう、さらに、強い呪いと悪口を浴びせるだろう。
「バカ言ってんじゃないよ」と「処刑せよ」はいとこ同士だ。
このすべての悪口と呪いは、致命的ウイルスのように、国全体に伝染させ、共同体精神を殺してしまうだろう。

憤怒も愛のようにやりとりすることだ。
私たちが、彼らに怒れば、彼らも私たちに怒るものだ。
憤怒は、やりとりして激しくなる。
大統領の裸体風刺画をめぐり生まれた憤怒と攻撃は、憤怒と侮辱に対して報復したケースだ。
1、憤怒交換が日常になった市民、
2、敵意を胸に抱いた政治家、
3、扇情主義に陥った報道機関,
この3つの間に無言の三角体制が形成されれば、私たちの社会全体が、憤怒中毒の奈落に落ちるのは時間の問題だ。

<憤怒の処方>
韓国に、公議が蜜のように流れるようにしたいのか?
それなら、あの三角体制を解体して社会的愛情(social affection)を広めなければならない。
それでこそ、私たちと彼らの中に内在した憤怒のエネルギーを、改革エネルギーに転換し、安全に再配置することができる。
憤怒の臣下になって、ゾンビのように動く人はすでに主権者ではない。

弾劾の賛否をめぐり、ろうそくと向かい火が激しくぶつかる。
ダライ・ラマのように互いに「敵」を許せといえば骨なしだとののしるだろう。
そうだ。私たちはすでに憤怒で立ち上がった。
憤怒が、「私」の性向、歴史的遺産、社会的構成の合同作品であることを悟り、情操的に成熟して、憤怒中毒には陥らないようにしよう。

国の公議は、結局、私たちとあの人たちがともに成し遂げなければならないためだ。
以上、中央日報参照

[ 2017年2月24日 ]
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