アイコン 【投稿】傑物!ありし日の西岡竹次郎

西岡竹次郎投稿者;みのしまりんぺい

 私はさいわいにして、すぐれた業績を持つすぐれた人の声貌に接することを得た。これは私が述べておかないと、世間に忘れられてしまうので敢えてペンをとった次第である。
 

西海橋ができたのは昭和33年。当時私は田平町(現平戸市)の北松農業高等学校に勤めていた。三十余才の青二才であった。
 どういう風の吹き回しだったのか、当時の金森校長(同校長も長崎県の教育界にあっては傑出した人だった)「お前だったら知事の所にやっても門前払いをくうことはあるまい」と、メロン一箱をもたされ、県庁を訪問させられた。
 当時の県知事は民選初の西岡竹次郎であった。私が秘書に来意を告げると、案の定、知事は上京間際で、空路の時間が迫っていて面会かなわぬとケンモホ口口。
 「いや、これを知事さんにおあげするだけだから、手間はとらせない」などと押し問答をくり返していると、中から声がかかった。「客人をお通ししなさい」。ツルの一声で知事室の中に入ることができた。私は出会い頭に「知事さん、かねてより念願の西海橋が完成しましたね。」私は今、北松農業高校に勤めていて、ここに学校産のメロンを持参したのですが、もとは時津出身、親子二代にわたる西岡党です。(注三代目もどうやら隠れ西岡党らしい)開通おめでとうございました」と祝辞を申しあげると秘書が「知事さん、飛行機の時間です」とせきたてる。知事は「キャンセルしなさい!」といい捨て、私一人に向かってとうとうと西彼杵半島開発のビジョンを述べるのであった。
 「そりゃ君、大変な時代だよ。西彼杵半島が農業未開発地域として、国の指定を受けたことは、君も知ってるだろう。その後二ヵ年にわたる調査の結果、開発計画を樹立した。大きくとらえるならば、西海橋の竣工によって長崎・佐世保が短時間でつながり、陸の孤島として放置されていた西彼杵半島に、光明を与えたのだが、長崎と西海橋をつなぐ沿線約百町歩が農林大臣から開拓計画の承認をうけた。一部はすでに事業の着工をしたのだが、さらに地元の協力で、民有、並びに公有地、約一千町歩が譲り受けられた。しかしながら、この面積は目標額の1/3にすぎない。民有、公有、国有地、約二千町歩がとり残されている。したがって、まず国有地の開放により事業に拍車がかかるよう農林省に要望、一斉に事業が実施されるよう、全地域を一まとめにして、認証していただきたい…云々」
 青二才の私ただ一人を前に、自己の所見を声を大にしてのべ続けられた。「大体、君、西彼杵半島のだね、背梁山脈のど真中に真っ直ぐ大道路を貫通させ、そこから内海・外海の要地にアバラ骨十数本おろして、各地と長崎・佐世保、ひいては中央と結び、物資文化の交流を密にするのだ。君の郷里、時津は長崎街道の裏街道として栄えた。難所日見峠を通らねばならぬ。本街道は彼杵に至るまでに一泊せねばならぬが、時津から彼杵に船で渡ると、その一泊が省略できる。その上に、船上からの風景を楽しむこともできる。そういうわけで、長崎街道を使う大名や奉行、文人墨客たちの多くは時津街道を選んだ。いわゆる時津は、物資と文化交流のメッカとなって栄えたので、この時津の繁栄を、単に時津の繁栄だけにとどめることなく、西彼杵半島各地にそれを及ぼそうというわけなんだよ」と地図を広げ、計画書をめくって、まくし立てるのであった。その情熱、その勢いに私は時を忘れた。側聞するところによると、金子原二郎現知事の得意技は「居留守を使うこと」だそうである。同知事は生来、人みしりをする性格らしく特定の人としか会わず、知事室の中で昼寝をしているのだという。ああ、なんたることか……。
 私は、北松農業高校の前に川棚高校に勤めていたが、そこで県知事選挙の立会演説があった。官選知事の杉山宗次郎と民選を目指す西岡竹次郎の両候補者である。その日、雨が降っていた。西岡曰く、「この雨です。皆さんはこの会場においでになるのに、沿道のチャポチを浴びられたことでしょう。川棚は大村湾東岸を貫通する交通の要地であり、さらに波佐見に分岐することでその重要性を加えるのですが、どうですか、皆さん、土木専門の知事を頂きながら、今は天下の悪道路です。私は土木専門ではないが、そうはさせない。政治力によって早急に快適な道路に変貌させる。このことをまず、皆さんにお誓いします」と大演説をまくしたてた。
 この辺は、人も知る保守地域で現職有利とみられていたが、この一演説で形勢が逆転した。演説が終るや、西岡はさっと身をひるがえして玄関に走り、参会者一人一人に、ありがとう、ありがとうを繰り返し、求められれば握手も続けた。ここら辺で二人の候補者の間に歴然として大差がついたのであった。杉山知事はそそくさと尻尾を巻いて逃げ帰り、まるで勝負にならなかった。
 私は目の前で、西岡竹次郎という長崎県政で一世を風靡した傑物の声貌に直に接した。この光景は私の記憶の中に一生焼き付けられるに違いないと思った。その場の光景、あの雰囲気、西岡竹次郎の迫力ある声貌があれから半世紀以上を経た今日、私の眼前にまざまざと蘇るのである。
 ああ、西岡知事さん!その心意気、その声、その姿、決して忘れはしません!

編集部・・・金子原二郎チジとは大違いですね。

 

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[ 2009年8月13日 ]
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