アイコン 神埼市の百済門建立 歴史に基づかなければ王仁公園の廃れは早い 

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神埼市のロマンには限度がある。
韓国中央日報によると、
日本に儒学を伝えた「王仁博士」を賛える公園が日本に造成される。この公園には韓国の専門家が韓国伝統様式の門である「百済門」が建造されることになった。全羅南道霊岩郡の王仁遺跡にある百済門と大きさと形が同一の門だ。
11月13日、全羅南道霊岩郡によると、日本南部の佐賀県神埼市が、霊岩郡に王仁公園の造成に向けて協力を求めた。
王仁は、4世紀末~5世紀始めに日本の国王の招聘を受けて『論語』などの儒教経典を手に日本に渡り、日本の皇太子の師匠としても活動した人物だ。王仁は霊岩から出発して神埼に到着したことが分かった。
このような縁で神埼は王仁を賛える碑石と神社をつくった。また、2008年から市関係者が毎年霊岩郡を訪問するなど交流してきた。
そんな中、(神埼市が)敷地1万3000平方メートルに達する規模の王仁博士記念公園をつくることになり、王仁の生家など遺跡のある霊岩郡に協力を要請した。

松本茂幸・神埼市長が、自らチョン・ドンピョン霊岩郡守に「霊岩遺跡にある百済門と同一の門を公園門としてつくってほしい」と要請した。

霊岩郡は、この要請を受けて百済門の設計と施工をすべて引き受けることにした。伝統の瓦や木柱など必要な資材を国内で用意し、来年に資材とともに技術者を現地に派遣して百済門をつくる。これにかかる経費2億ウォン(約2100万円)も霊岩郡がすべて負担する。

◆王仁博士=韓国には記録が残っていない。
以上、韓国中央日報

<古事記と日本書紀>348年来日
王仁博士については、生没年等不詳で、古事記(712年完成、天武天皇の命により編纂、在位673年~686年、現物焼失、現存は写本)に「和邇吉師」と掲載されている。
日本書紀(完成720年頃、天武天皇の皇子の舎人親王が編纂)等によれば、「王仁」は、応神16年(348年)に、応神天皇(日本武尊の息子の仲哀天皇と神功皇后の皇子(絶倫の武内宿禰との子の一説あり)、仁徳天皇の父)の招聘により来日し、論語10巻と千字文1巻を献上したと記述されており、日本に初めて漢字と儒教を伝えた人物であるとされる。
『古事記』では「和邇吉師」、『日本書紀』では「王仁」と表記されている。また、続日本紀、新撰姓氏録にも、「王仁博士」に関する記述が残されている。
(魏志の倭人伝で卑弥呼は247年に登場している)

神埼市の鰐大明神と王仁天満宮・・・神埼市の論
 「この神社の創建は、定かではないが、正面の鳥居は元禄12年(1699年)に氏子三村から寄進されたものとされる。
 御祭神として鰐大明神と熊野三社が祭られているところから、渡海者の安全を祈願されたものと思われるが、当社には王仁天満宮と刻まれた小さな石祠も祭られている。
 王仁というのは応神16年に応神天皇に招かれて、百済から多くの技術者集団をつれて渡来されたと古事記、日本書紀等に記載され、漢字の手本である「千字文」と儒教の原典である「論語」を初めて日本に伝えた王仁博士ではないかと思われる。
  王仁博士の一行は、朝鮮半島の南西端にある木浦の港から渡来したと伝えられているが、日本のどこに上陸されたかは記録もなく不明。もし、吉野ヶ里の渡来人と同じく有明海から北上したとすれば、ここ竹原地区付近に上陸されたと思われ、ロマンに満ちた夢は大きく膨らむ」と神埼市はしている。

<遺跡建立を目指す神埼市>
神埼市では、竹原地区にある「王仁天満宮」が「王仁博士」と何らかの関係があるのではないかと、これまで王仁博士の生誕地である大韓民国霊岩郡を訪問し、また、霊岩郡からの訪問団の受け入れなど交流を重ねてきた。 
(・・・・だが、遺跡のある韓国でも王仁博士の記録はない)
神埼市は、吉野ヶ里遺跡から北へ約1キロメートルにある神埼町竹原の「王仁天満宮」と日本に初めて漢字を伝えたとされる王仁博士との関連性に着目し、王仁博士の顕彰を図るため、王仁博士の生誕地である韓国霊岩郡生誕地史跡訪問事業を行っている。
(新遺跡建立や公園建設の布石だったのだろう)

中央日報も神埼市も、王仁博士は神埼市に到着したとしているが、日朝間の往来はすでに航路が確立しており、天皇が百済から招聘した人物でもあり、有明海から入るルートでは時間がかかり、大和からも遠くなる。神功皇后が三韓征伐(201年)に出かけた出航地は唐津市とされている。
(古事記・日本書紀ともに、日本武尊死後36年して仲哀天皇が誕生している)

<王仁公園>枚方市、神埼市
鎌倉時代の僧・道俊が『王仁墳廟来朝記』の中で、藤坂村(現、枚方市藤阪東町2)の鬼墓は王仁墓のなまったものと主張し、京都の儒者・並河誠所がこの書物をもとに王仁博士の墓として崇拝するよう地元の領主に進言し、享保16(1731)年に「博士王仁之墓」と刻んだ墓石を建てたことが始まりで、昭和13年に大阪府の史跡に指定されている。

この地も何の根拠もないようだか、すでに昔から史跡として公園が整備されており、神埼市のように、今になってわざわざ百済門を建立して一大遺跡を創り出すのは、捏造・いかがなものかと思われる。

<徐福さん伝説はロマンがある>佐賀編
紀元前210年頃、秦の始皇帝の命を受け不老不死の薬を求め日本へやってきた徐福さん、大環濠集落跡地の吉野ヶ里遺跡も除福さんの遺跡ではないかとする説もあるほど・・・、日本全国に除福さん伝説は伝わっている(3000人の各種技術者や若い男女を連れ出航したため、始皇帝を騙して日本へ逃亡した説あり)。
徐福さん伝説は、和歌山県新宮町の徐福公園などあるが、有明海から来たとし、佐賀市内だけでも金立町、諸富町、富士町、大和町の4ヶ所が徐福ゆかりの地とされている。上陸地の諸富町寺井津「浮盃」、片葉の葦、新北神社のビャクシン(中国伝来の木、樹齢2200年)、金立町「千布」(徐福さんたちが来るまでに千反の布を使いきった地)、阿辰観音(徐福さんと阿辰との恋仲の悲恋物語)、金立山のフロフキ(薬草、徐福記念館)など多数ある。

<王辰爾とする説>
王辰爾(王智仁)は、第16代百済王辰斯王の子辰孫王を発祥とする渡来系氏族船氏の祖で、学問に秀で、儒教の普及にも貢献したとされる人物。
日本書紀によれば569年(欽明天皇30年)には王辰爾の甥の胆津が白猪屯倉に派遣され、田部の丁籍が定められた。

751年頃編纂された「懐風藻」の序文には、「王仁は軽島に於いて(応神天皇の御代に)啓蒙を始め、辰爾は訳田に於いて(敏達天皇の御代に)教えを広め終え、遂に俗を漸次『洙泗の風』(儒教の学風)へ、人を『斉魯の学』(儒教の学問)へ向かわしめた」と掲載されている。
『懐風藻』は、現存する最古の日本漢詩集で、近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収められている。撰者不明の序文によれば、天平勝宝3年11月(751年)となっている。
 ただ、日本書紀など編纂者の渡来人たちが、天皇等に仕えた渡来人たちを総称して王仁を創り出した可能性もあるという。当時は百済との親交が強かった時代。

<日本書紀・巻第十(応神紀)>
「十五年(404年)秋八月、壬戌朔の丁卯(6日)に、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢いだ。そこで、軽(現在の奈良県橿原市大軽町の辺り)の坂の上の厩で飼わせた。そうして阿直岐に任せて飼わせた。
それゆえ、その馬を飼った所を名付けて厩坂という。阿直岐はまた、経典をよく読んだ。それで、太子菟道稚郎子(応神天皇の皇子)は、阿直岐を師とされた。
ここに、〔応神〕天皇は、阿直岐に問うて言われた。「もしや、お前に勝る学者は他にいるのか」。答えて言った。「王仁という人がいます。すぐれた人です」。
そこで上毛野君(かみつけのきみ)の先祖である荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わせ、王仁を召しださせた。その阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖である。
十六年(405年)春二月、王仁は参った。そこで菟道稚郎子は王仁を師とされ、もろもろの典籍を王仁から習われ、精通していないものは何もないようになった。いわゆる王仁は、書首(ふみのおびと)らの始祖である。」と記されている。

(書首:外交文書の翻訳、文書の作成、海外情報の分析や外交使節に随伴して通詞をする。ほか、所領や租調の記録、政変や天変地異の記載、史書の収集編纂、中国典籍の紹介など)

 以上、300年代の出来事が、700年代に古事記や日本書紀に編纂されている。当然、時代が違いすぎ、かなりの部分が伝承に過ぎない。
天皇家の代々の記録は保管されていたが、645年の中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)によって、それまで天皇家を利用して権勢を誇っていた蘇我蝦夷を自害させ、その過程ですべて記録文書が焼失したとされる。
 そのため、中大兄皇子(天智天皇)・中臣鎌足などの世になり、大化の改心(646年)以前は、すべての歴史が、彼らの都合のいいように編纂された可能性もあり、そのため脈絡が繋がらない記述が多いとされている。
そのためか、33代天皇の推古天皇(在位期間:593年1月15日 - 628年4月15日)以前は、即位や崩御の歴史が定かではない。

日本の記紀には登場しない卑弥呼は、238年に魏志の倭人伝で登場している。仲哀天皇(200年福岡の香椎宮で崩御)も神功皇后もそれ以前のお人だ。
日本の記紀に記載されていないが、中国の歴史書には、
『魏志の倭人伝』では、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称で、陳寿により280年(呉の滅亡)~297年に編纂された歴史書。
『梁書』: 梁(502年~557年)の歴史を記した歴史書の中に、光和年間(178年~ 184年)に卑弥呼が共立され、倭を治め始める。と記載されている。
景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
 『後漢書』は范曄(398年~445年)により編纂された歴史書。「魏志倭人伝」には年代の指定がない倭国大乱についても桓帝・霊帝の間(146年~189年)と、大まかではあるが年代の指定がある。
 倭国大乱を収拾させるため諸国が、妖術使いの少女「卑弥呼」を女王として擁立させ大乱が収まったとされ、「卑弥呼」は一生独身だったとされる。

以上のとおり、神功皇后など判然とせず、韓国にもいろいろ歴史書があるが、1000年代以降に編纂され、それ以前の歴史書はなく(李王朝になり、両班たちが文化大革命を起こし、仏教や過去のすべてを廃絶したことにもある)、特に古い倭国のことについては内容があやふや過ぎて参考にならない。・・ここまで述べてしまえば、神功皇后が201年に唐津から航路、三韓征伐に出かけたこともあやふやになるのだが・・・・。

そのような当時の王仁博士である。観光?何の目的で、今になって神埼市は王仁博士公園を造ろうとしているのだろうか。徐福さんのようなロマンを感じらせるものもないのだが・・・。



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[ 2015年11月16日 ]
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