アイコン 回顧録「日刊セイケイ斯ク戦ヘリ」 自民党の若きホープだった。④

回顧録「日刊セイケイ斯く戦ヘリ」を思い出すままにつらつらと書いています。④

自民党の若きホープ

宮島金子さんが衆議院を辞職した後の後任に息子の大典(次男)を出馬させようと思ってる。
と、のっけから切り出してきた宮島組合長に対して春光会長は「そがん言うても、大典さんは去年、 長崎一区から出馬したばかりじゃろう。しかも、金子さんが知事選に出馬して、その後任ってなれば4区には朝長さんもおるわけだし、北村さんも出たかじゃろ う。」と言うと、次の宮島組合長の返答を待った。

 春光会長がいう朝長さんとは佐世保市議2期、長崎県議4期務め現在は佐世保市長であり、2010年1月10日、佐世保市が開催した成人式で挨拶中、壇上 に上がって騒いだ新成人に対し「社会のルールを守ることを認識してほしい。社会は厳しいものですよ」と一喝した、あの朝長則男市長のことである。

当時47 歳と政治家として脂が乗りかかり国政への進出にも意欲的だった頃である。また、もう一人の北村さんとは現在衆議院議員(5期・岸田派・元防衛副大臣)の北 村誠吾氏のことである。北村氏も元農水大臣・白浜仁吉翁の秘書を長らく務めていたくらいだから当然、この頃はチャンスが来れば国政へとの熱い思いはあっ た。北村氏も49歳とまだ若かった。

宮島組合長の子息である宮島大典氏は当時34歳の若手のイケメン候補として将来を嘱望されていた政治家であった。

家柄も申し分なく学歴も長崎の青雲中学・高校から一橋大学社会学部卒業と人も羨むエリートでもある。大典氏は1991年(平成3年)に28歳で佐世保市から長崎県議会選挙に出馬し初当選、4年後の1995年 (平成7年)、第17回参議院議員選挙に自由民主党公認で長崎県選挙区から出馬したが、西岡武夫氏が幹事長を務めていた新進党公認の田浦直に敗れ、次点に 泣いていた。

さらに翌年1996(平成8年)初めての小選挙区制度で行われた衆議院選挙では長崎1区から出馬、あの西岡武夫氏に約13000票差にまで迫る大健闘を見せていた。

あの時、西岡氏は60歳、宮島氏はまだ33歳という若さだった。次の選挙ではさすがの西岡氏も危ないと囁かれた選挙でもあった。ちなみに私が43歳の時である。あの時の大典氏の選挙を仕切っていたのが同じ佐世保市選出の県会議員で長崎県連幹事長でもあった林義博幹事長だった。

今、思えばあの頃が自民党の 党営選挙としての最盛期だったような気がする。その時の選挙で佐世保市出身の大典氏は「長崎一区に骨を埋める」 と公言し、西岡氏の強固な地盤である長崎市内での選挙戦でも大典氏は大健闘していた。

大典氏の「長崎一区に骨を埋める」 という言葉に共鳴して宮島大典に投票した長崎っ子は多かったはずである。

また、大ちゃんスマイルと呼ばれた大典氏の若さと爽やかな笑顔は長崎一区の若い女性の心と票を鷲掴みにしたとも噂されていた。文字通り自民党の若きホープであった。ただ、私が率直に感じたのは1991年(平成3年)の県議選、1995年(平 成7年)の参議院選、1996(平成8年)の衆議院選、そしてまた今度1998(平成10年)の衆議院補欠選と宮島家はいったいどのくらいの資産があるんだろうかとの率直な疑問だった。そして、その原資はどこから来てるんだろうかとの素朴な疑念だった。

まさか、その2年数カ月後、あんな事件が起きるとは環境タイムスの主幹だった私でも想像もしなかった。

[ 2016年4月10日 ]
 

 

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