アイコン 【解説】内山建設の破綻

内山建設の創業は古く、1898年(明治31年)3月。1972年7月に法人化。神社仏閣建設を得意とし、地域柄公共依存型の経営を行ってきた。鳥栖・基山地区では、大島組、野中建設(2007年3月破産申請)と共に地元3大ゼネコンとして地名度を有した。

バブル時代、鳥栖・基山地区は福岡のベッドタウン化に伴い大型団地の開発や住宅が押し寄せ、同社も順調な業績推移であった。バブル時売上高も年商28億円を突破していた(09/6月期年商13億86百万円)。96年8月になり殆ど借入金により新社屋を建設。しかし、バブルも崩壊、2003年6月期には不採算子会社3社を清算したことなどにより財務内容が急悪化した。
この間、官庁工事も減少の一途を辿り、民間工事も競争が激しく現場も昔のようには取りなくなっていた。そうしたなか、同社は元請より下請工事が多くなり、採算が悪化していたのではと地元関係者が指摘する向きもある。それほど元請での受注が少なかったのであろうが、利益が出ない体質となっていた。
06年6月期には、土地・建物などの固定資産の売却をはかり1億70百万円の特損計上、1億20百万円の債務超過に。対外的な信用が損なわれる結果を招き、その後低空飛行を続けてきたが糸が切れた。
 4代目の代表は、昔プロ野球の選手でもあった。(ちゃんと仕事していたのであろうか・・・?)
なお、地元3台ゼネコンのうち、野中建設も07年3月破綻しており、地元有力ゼネコンは大島組1社だけとなった。
 

[ 2010年3月 1日 ]
モバイル
モバイル向けURL http://n-seikei.jp/mobile/
この記事を見た人は以下も見ています(解説、)
スポンサードリンク