アイコン 再掲 普天間基地の成り立ちを淡々と振り返ってみよう その2

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ここ最近の沖縄タイムス、琉球新報、テレビのニュース番組を見るだけで気分が滅入ってしまう。

たしかに、ヘリから窓枠落下はあってはならいことだし、あれが人にでも当たっていたらと思うだけでもぞっとする。

事故はあってはならないし、また起こしてはいけないのはたしかだ。

それでも起きるのが事故である。

まず事故の原因究明が急務だし、それから事故を2度と起こさないようにどう対応するかだろう。

沖縄2紙の待ってましたとばかりの報道には違和感を感じるし、辟易するものがある。



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きょうも(農と島のありんくりん)を紹介します。

農と島のありんくりん
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移り変わる自然、移り変わる世情の中で、真実らしきものを探求する


再掲 普天間基地の成り立ちを淡々と振り返ってみよう その2

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あいかわらず修理がなおらずに、だましだまし書いています(泣く)。昨日に続いて、2015年10月17日記事を大幅に加筆修正して掲載します。

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承前

前回、百田氏の「基地の周りは水田だった」という主張と、翁長知事や地元紙の「銃剣とブルドーザーで基地を作った」という二つの主張を比較してみました。

百田氏の主張が全面的に正しいのは戦前までです。

普天間地域には、有名な松街道が縦貫し、畑や水田の中に民家や公共施設、商店が散在する普通の村の風景。ひろがっていたようです。

そしてあの忌まわしい戦争が始まりました。普天間を見下ろす嘉数台地は、米軍戦史にも残i 激戦の舞台となりました。※修正しました。

後に基地のコンクリートの下に埋もれてしまった宜野湾、神山、中原、新城などの集落は、戦中の軍事的接収で基地となったのでした。

もちろん戦後には、地権者の申し立てにしたがって地代が支払われるようになっています。

住民は収容所から帰ると、我が村はすでに基地になっていたのでした。

戦争で家族と財産を失った上に、帰るべき故郷も家ごと喪失した村民にとっては、胸がつぶれる思いであったとでしょう。

その意味では、確かに琉球新報が述べるように、「米軍によって排除され、基地周辺で生活せざるを得なかったことは歴史が証明している」という言い方は正しいのです。

しかし表現の問題としては、接収時には住民は避難していたはずですので、住民に「銃剣をつきつけて」という場面があったとは思えませんが。

「銃剣」=軍政の含意でしょうが、この表現は後に多くの誤解をもたらすことになります。

では地元紙がいうように、沖縄の基地すべてが「銃剣とブルドーザー」で作ったのかといえば、かならずしもそうではありません。

ここで留意したいのは、沖縄の米軍基地には3分類あることです。

①普天間基地のように米軍の接収によるもの。
②嘉手納基地のように日本軍飛行場だったもの。
③キャンプシュワブのように地元が誘致したもの。

さて、ここで時間を飛躍して現在の写真を見ましょう。
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これが反基地運動家をして、「沖縄基地はギネス級」といわせる現在の写真です。

まぁ、ひと目見てスゴイですね。特に驚かないのは、私のような.本土米軍基地の真横で育った者くらいでしょうか。 

では、これらの普天間基地周辺の学校がいつ出来たのか調べてみましょう。

・沖縄県立普天間高等学校・・・1946年(昭和21年)

・宜野湾市立大山小学校  ・・・1946年

・宜野湾市立宜野湾小学校・・・1946年

・宜野湾市立普天間中学校・・・1946年

・宜野湾市立嘉数中学校 ・・・1962年(昭和37年)

・沖縄県立中部商業高等学校・1965年(昭和40年)

・宜野湾市立普天間第二小学校・1969年(昭和44年)

・沖縄国際大学 ・・・1972年大学設置(1959年創立)

・宜野湾市立大謝名小学校・・1976年(昭和51年)

・沖縄県立宜野湾高等学校・・・1981年(昭和56年)

・宜野湾市立志真志小学校・・・1982年(昭和57年)

・宜野湾市立宜野湾中学校・・・1986年(昭和61年)

・沖縄カトリック中学・高等学校・1994年(平成6年)

・宜野湾市立長田小学校・・・1999年(平成10年)

こうして、普天間基地周辺の学校の出来た時期を見ていくと、基地があってその周辺に学校や住宅が建ったのがわかります。

もちろん、そこに基地があることを十分に知って、家や学校を建てたのです。

米軍が「銃剣とブルドーザー」で民家や学校を破壊して、基地があるわけではありません。

私の実家も厚木基地の周辺でしたが、私の両親はそこに基地があり、爆音公害があるのを知って引っ越したのです。

反基地運動家が叫ぶように、「銃剣をつきつけてブルドーザーで民家をぶっ壊して住宅地のどまん中に建てた。だからこのように基地周辺に密集した」わけではないのです。

たとえば米軍ヘリが墜落したことで一躍「有名」になった沖国大は、大学創設は1972年です。その前身である琉球国際短期大学の創立は1959年です。

普天間基地が出来て実に14年後のことです。ということは、基地があるのを十分知りながら、ここに大学を設置したことになります。

ちなみに、今米軍機の部品が落下したといわれている緑が丘保育園は1964年の開園です。

これをどう評するべきでしょうか。 

保守派の百田さんは、「普天間基地があって、その後に住宅が出来た」ということを強調したいあまりに、実際に「銃剣とブル」で接収した時代もあったことを無視しています。これはフェアではありません。

一方、翁長氏や地元2紙は逆に、「米軍は銃剣とブルドーザーで住民が住んでいた民家や学校を潰して普天間基地はできた」と言いたいために、いま基地周辺にある学校や住宅は、基地が出来てから集まったことを、都合よく忘れています。

翁長氏は公的発言の中で、このような極端な言い方をしています。

「住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかして、家も壊して今の基地は全てできている」

この短いセンテンスにふたつも間違いがあります。「住んでいる時」ではなく避難した後に接収したのであり、「すべての基地」ではなく、一部の基地です。

②の嘉手納基地のように元日本軍飛行場跡もあれば、③のシュワブのように、住民が誘致した事例すらあります。

しかも接収されたのは半世紀以上前の、しかも戦時であって、米軍の接収は腹が立ちますが、国際法上では占領地の接収は合法です。

戦後はこの軍事占領を契約関係による土地賃貸関係に転じたわけですが、「気分」としては占領軍の居座り続けている「気分」を沖縄県民に与える原因となっています。

たしかに、戦闘で奪った土地に占領軍がそのまま駐留軍となって居すわるのは、ここ沖縄だけの現象です。

とまれ、今の普天間基地の危険性の問題と「銃剣とブルドーザとは、直接になんの関係もありません。

この人たちは、移設問題の発端が「普天間基地の危険性の除去」だという事実から目をそらしたいために、接収方法のみを声高に言っているにすぎません。

翁長氏は辺野古移設についての福岡高裁那覇支部の裁判でも、このような陳述をしています。

「このたびの訴えの提起は、法律に基づくものであるとはいえ、沖縄県民にとっては「銃剣とブルドーザー」による強制接収を思い起こさせるものであります」

あるいは、2015年9月2日の国連人権委のスピーチ冒頭で、こう述べています。

「沖縄県内の米軍基地は、第2次大戦後、米軍に強制的に接収され、建設されたものです。私たちが自ら進んで提供した土地は全くありません」

2015年5月20日外国特派員協会での講演ではこうです。

「普天間基地もそれ以外の飛行場も基地も、戦後、沖縄県民が収容所に入れられているときに取られたか、住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかしてですね、家も壊して今の基地は全てできているんです」

本土人と外国人がいるところで彼が講演すると、「銃剣とブルドーザー」が出ない時のほうが珍しいくらいです。

これが翁長氏が率いる「オール沖縄」の定番である米軍基地「銃剣とブルドーザー強制徴発論」です。

ここまで意図的にねじまげるとため息が出ます。ある種の心理的トリックです。

辺野古移設は、市街地にある基地の危険性の低減を目的としたものですが、翁長氏にかかると「米軍による強制接収」となってしまっています。

主体はあくまでも米軍ではなく、日本政府です。

このように「銃剣とブルドーザーを思い出す」といえば、米軍の非道が論証ぬきで説明できてしまい、本土政府はそれを言われると異民族支配を言い募られたような気分になって腰が引けて妥協してしまう、被害者性を必要以上に強調するためのマジック・ワードに変化してしまったことがわかります。

マジックワードはえてして、イデオロギーくっついて反論を許さない硬直した状況を作り出します。

百田氏の発言は、そのような状況に一石を投じたものでした。

判断はそれぞれにお任せしますが、私は百田さんと地元2紙双方とも、自説に引き寄せて都合よく歴史を切り取っているようにみえます。

次回もう少し普天間の市街地の膨張をみてみましょう。






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[ 2017年12月21日 ]

 

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