再掲 普天間基地の成り立ちを淡々と振り返ってみよう その1
普天間基地、辺野古移設問題は本土の人には理解し難いものがる。
1996年4月12日、当時の橋本龍太郎首相とモンデール米駐日大使が 普天間基地の返還合意を発表してから20年が経つ。
1998年、移設先が辺野古に決まってからも18年が経過しようとしている。
その当時、辺野古移設を掲げて名護市長選で反対派を破って当選した岸本建夫市長の横で満面の笑みを浮かべて万歳してたのが、今の沖縄県知事、翁長雄志氏である。
たしか、現在は辺野古移設反対のシンボルに祭り上げられている名護市の稲嶺進氏も辺野古移設推進派だったと記憶している。
この手の政治家というかリーダーと、沖縄2紙のような極端に反日化したマスコミによって沖縄が大きく歪められている。
きょうは、秀逸のブログ(農と島のありんくりん)で普天間基地の成り立ちから、もう一度お浚いしてみましょう。
農と島のありんくりん
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移り変わる自然、移り変わる世情の中で、真実らしきものを探求する
あいかわらず、故障中です。しくしく。
ブロッガーからパソコンとったらだるまさん。
これもお借りしたので作っていますが、私は親指キイボードという知る人ぞ知る奇妙奇天烈なものなので、もうたいへん。
今日は、過去記事で訪問数が多いものを選んで、再掲載させていただくことにいたしました。
ブログ主
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「普天間基地の成り立ちを淡々と振り返ってみよう」
2015年10月17日掲載
淡々とというのは、簡単そうであんがい難しいものです。
というのは今のように対立が政治がらみで先鋭化すると、その政治力学の狭間に落ちて、肝心なニュートラルであるべき事実関係が忘れられてしまうからです。
ちょっと前に百田さんが「普天間基地は水田ばかりの場所に建った」と発言して物議を醸しました。
沖縄2紙は自分が批判されたこともあって、逆上気味に反論していました。
では、普天間基地が作られていく状況を、時系列で見ていきましょう。
まずは、1945年に戻っていただきます。今の普天間基地のあたりです。
(写真 1944年9月、米軍が上陸用に撮影。宜野湾市による)
学校や役場も見えますが、おおよそは緩やかな丘陵地に連なる松林と畑地、サトウキビ畑のように見えます。
この写真は、普天間基地の空中写真としてはもっとも古いもので、米軍が1944年(昭和19年)9月という上陸作戦7か月前に軍事目的で撮影したものだということです。
米軍が上陸用の作戦地図をつくるために撮影した写真だそうです。民家もたくさんありますが、広大な畑が広がっている様子がわかります。
地上の写真も残されています。大変に見事な松林の道です。この写真を掲載した琉球新報はこうキャプションをつけています。
「1932年の松が並ぶ宜野湾並松。1932年には「宜野湾街道の松並木」の名称で国の天然記念物に指定された(1910年ごろ(写真集じのーんどぅーむらより)」
これらは沖縄戦で失われました。実に残念です。今残っていれば、人々に憩いと涼を与え、いい観光スポットにもなったでしょう。
(写真 戦前の見事な松林。琉新2015年6月30日http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-245002.html)
このような見事な松林街道があったのは、普天間という場所が、南部と北部を結ぶ交通の要衝だったからです。
※参考資料 宜野湾市 普天間基地の歴史・成り立ち:普天間基地@米軍飛行場がある暮らし
街道沿いには宜野湾、神山、新城などの集落がありました。いわゆる散村形態ですので、畑やキビ畑に混じって、学校や役場などが点在していたと思われます。
次の航空写真は、もう少し時系列が下がって1945年です。米軍は、近隣の読谷から上陸し、当時の宜野湾村を制圧しました。
今でも基地を眺めるスポットになっている嘉数台地は、沖縄戦を代表する激戦地でした。今もまだ多くの将兵の遺骨が残されています。
ここに米軍は、2400mの滑走路を作りました。それは本土に対する上陸作戦用の航空基地でした。
(写真 1945年当時の普天間基地。米軍撮影)
さて、この基地が作られた場所を改めて確認しておきましょう。琉球新報がいい地図を作ってくれています。
(図 琉新2015年6月30日より)
松林の街道に沿った宜野湾、神山、中原、新城などの集落が、基地になってしまっています。
これが軍事接収でした。米軍は沖縄戦の真っ最中から基地建設のために土地接収を開始します。
当然、彼らにとって沖縄は敵地で、普天間地域は嘉数という映画にもなった激戦地の近隣でした。多くの米兵も日本兵が戦死した、まさにその現場だったといってよいでしょう。
しかも日本との戦争は終わっていませんでした。
ですから、占領地にたいしては一切の補償もクソもなく、文字通り「銃剣とブルドーザー」で奪い取ったものです。
ただし、民間人の家屋を接収するにたいして、普天間でほんとうに「銃剣」を使ったような行為に米軍が及んだかは疑問です。
普天間では、あくまで比喩的表現だと考えたほうかよいと思います。う。
なぜなら民間人が激戦地に居住しているはずがないからです。住民は南部に逃れた後に収容所に入れ:解放されて我が家が基地のコンクリートの下になったことに気がついて愕然としたのでした。
もちろん、普天間も戦後に地代を払っていますが、これが既に日本軍の飛行場があった嘉手納基地などと違って、民間所有が多くなった原因です。
ちなみに戦後、地籍簿が焼失し、所有者の自主申告に任せたために、それらを累計すると、普天間基地は海の中まで出てしまうという笑い話があります。
それはさておき、ここまで読まれて、百田さんが言うように「普天間飛行場はもともと田んぼだった」(琉球新同じ)のか、地元2紙が言うように「米軍によって排除され、基地周辺で生活せざるを得なかったことは歴史が証明している」(琉新同じ)のが正しいのか、いかが思われるでしょうか。
私は、双方とも事実の片面だけを見ていると思います。
百田さんが言う「水田だけ」というのは、やや大げさな表現だと思います。
大都市大阪の人らしい視点ですね。大阪人風に言えば、「なにもないやろー」ということですが、ちゃうねん。
大阪人たちにかかると奈良すら、「なにもないやろ。鹿しかおらへん」ということらしいので、農村なんかまったくの田んぼと思うようです(笑)。
私は農村に住んでいますが、水田があるということは、必ず近在にそれを耕す農家もあれば、寄り合い場、公民館、郵便局、学校、小学校などの公共施設も付随しているものなのです。
これを「水田だけ」と言われると、村の人間としてはムッとなりますね。 人の暮らしも田んぼには付随しているものなのですよ。
(写真 5月18日、大名高地で戦闘中の第1海兵師団第2大隊のアメリカ海兵隊員。Wikipediaより)
一方、地元2紙が言うような「村を銃剣とブルで潰して作った」というのも、事実としては当時はそうだった、ということです。
ここで地元2紙は、普天間基地が誕生したのが、沖縄戦の真っ最中で、まだ大戦はおろか、南部では日本軍が強固な抵抗をしていた時期だという状況を忘れています。
戦闘中の軍隊が、敵地で平時と同じ接収方法をするわけがありません。
戦後も、普天間基地は拡大を重ねていくのですが、戦中ほどではないにせよ、占領軍独特の強引で暴力的方法で接収を重ねていきます。
これがいわゆる「銃剣とブル」の時代です。私はこのような時期があったことを、まったく否定しません。
ただし、これは1950年代末から60年頃まで戦われた「島ぐるみ闘争」までの時期だったということを忘れないで下さい。
※関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-e46c.html
この米軍占領下の時期が永続して、今もなお続いていて「植民地のようになっている」と主張するのが、地元2紙と翁長氏です。
翁長氏は、9月2日の国連人権委のスピーチ冒頭で、こう述べています。
「沖縄県内の米軍基地は、第2次大戦後、米軍に強制的に接収され、建設されたものです。私たちが自ら進んで提供した土地は全くありません」
翁長氏は似たようなことを、そこかしこでよく言っています。
「普天間基地もそれ以外の飛行場も基地も、戦後、沖縄県民が収容所に入れられているときに取られたか、住民が住んでいるときは銃剣とブルドーザーでどかしてですね、家も壊して今の基地は全てできているんです」(2015年5月20日外交特派員協会での講演)
さすがに、これは無理筋な論理展開でしょう。
翁長氏は、普天間移設問題を基地の危険性の除去という政府の論点からズラしたいために、「いかに奪われたのか」という部分のみを強調しようとしています。
「自ら提供した土地はない」というのはウソです。翁長氏は、キャンプ・シュアブやハンセンなどの地元の誘致運動の事実を無視しています。
他の基地に関しても、自分の主張にとって都合のいい、1950年代までしか見ようとしません。
翁長氏は都合よく、米国の統治の仕方が戦時から平時へ移行したことを忘れているのです。
1951年のサンフランシスコ講和条約移行の頃になると、占領下にあった沖縄でも戦時から平時への切り換えが行なわれました。
米国は沖縄が「軍事占領下」である」としていたわけで、裏返せばそれは潜在的に日本領だと認めていたことになります。
それが講和条約後に響いてきます。今までのような「銃剣とブル」で基地作りというわけにはいかなくなったのです。
(続く)