第2話:知事選『選考委員会』票読みの書
夜の県庁は、昼の顔とはまるで別物である。
ざわめきは消え、磨かれた床に蛍光灯が落とす光が、冷たい海の底のように広がっている。

“県護”の執務室にも、深い影が沈んでいた。
机の上、元監査人から贈られた黒いノート。
ページには、丁寧に書かれた名前の列が不気味に輝いている。
その横に、淡い鉛筆の印。○、△、×。
票読みの書を眺める。
選挙が始まるよりも前から続く、静かな戦である。
宣言よりも前、握手よりも前、人の心がどちらへ傾くかを見極める術がある。
ノートを撫でながら、県護は微かに息を吐いた。

肩のあたりが、重い。
一票差の痛みは、今日もまだ骨に残っている。
扉がノックされた。
「……入れ」
静かに入ってきたのは、県北の若い県議“MとO”だった。
ジャケットの袖口には、走り回った一日の疲れが滲んでいた。
「状況は」
「……流動的です」
「つまり、悪いか」
MとOは言葉を選びながら、短くうなずいた。
「決めきれない議員が多い。向こうは“勢い”を演出してます。
ただ……『本当に一本化なのか?』という声は、確実にあります」

県護は、静かに笑った。
「風か」
「ええ。風です」
しばしの沈黙。
蛍光灯が低く唸る音が、かすかに耳を刺した。
「幻治郎さんと会ったと伺いましたが」
「……噂は早いな」
「風を読める人は、耳もいいんです」
Oの声には、皮肉はなかった。
むしろ、どこか期待が混ざっていた。
「知事、まだ勝負は終わっていません。」
「分かっている」
視線はノートへ戻る。
ページの余白に、県護は小さく線を引いた。
「人は強い方につく。
だが、同時に“覚悟を示す者”にも惹かれる」
MもOも息を呑んだ。
「……覚悟、ですか」
「そうだ。ここからは、踏み絵が始まる」
ノートが閉じられた。
音は小さかったが、空気が揺れるほど重く響いた。
「明日、動く」

窓の外、街の灯りがかすかに瞬いていた。
港の風が、まだどちらへ吹くかを迷っている。
静かな反転の夜が始まった。
JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次





