長崎県海砂生産組合の総量規制が"数字遊び"になった瞬間に起きること
〜海砂行政の信頼が溶けていくメカニズム〜
「総量規制240万立米」。
この数字がひとり歩きしている今の長崎県海砂行政を見ていると、どうにも違和感がある。
いや、違和感どころではない。「これ、数字だけで物事を動かしてない?」という疑念すら湧いてくる。
そして、もし総量規制が“数字遊び”に堕ちてしまったら──
その先にあるのは、行政の信頼が静かに腐っていく未来だ。
今回は、そのメカニズムをあえて皮肉多めに整理してみたい。

■1:数字は便利だ。だからこそ“魔法の幕”にもなる
まず押さえておきたいのは、行政は基本的に数字を好むということだ。
• 数字は説明がしやすい
• 数字は「客観的」に見える
• 数字は議会にも市民にもプレゼンしやすい
つまり数字は、行政にとって“魔法の幕”になる。
だが逆にいえば、数字さえ整えてしまえば、実態を覆い隠せてしまうということでもある。
需要100万㎥弱 → 総量240万㎥
このギャップだって、言い換えれば“数字の魔法”の典型例だ。
本来なら、
「なぜ需要の3倍も採る必要があるのか?」
「その数字はどの根拠に基づいているのか?」
と問われるべき話だが、数字の魔法が掛かってしまえば、誰も深掘りしない。

■2:“数字が目的化”した瞬間、現場は荒れはじめる
数字が「目標」ならまだいい。
しかし数字が“目的化”してしまうと、現場は一気に歪む。
どういうことか。
たとえば、もし行政が240万㎥という数字ありきで政策を作っている場合──
• 需要の増減はどうでもいい
• 漁業への影響も後回し
• 環境への負荷も二の次
• 既存の産業構造(採取会社の都合)は優先
• 現場の声は数字の邪魔
こういう世界になる。
“240万㎥に合わせて海を使う”のではなく、
“240万㎥を採らせるために海を読み換える”という、本末転倒が始まってしまうのだ。
総量規制が本来守るべきは、海と地域のバランスである。
そのはずが、気づけば「数字を守るために海を犠牲にする」状態へと転落する。

■3:数字に依存すると、“失敗”を認められなくなる
数字遊びの一番怖いところはここだ。
いったん数字を設定し、関係機関や業界と共有してしまうと、
その数字が間違っていたと分かっても、なかなか引き返せなくなる。
理由は明快だ。
• 過去の決定を否定することになる
• 県のメンツが潰れる
• 「根拠が間違っていた」と認めにくい
• 関係者に説明しづらい
つまり、数字とは“撤退コストが高い構造物”なのだ。
だから行政は、たとえ現実と合わなくなろうとも、
数字を修正するより、現場に無理をさせる道を選びがちになる。
その結果、
「机上の数字」VS「海の現実」
の対立が始まる。
そして現実が負け続ける、というのが今の構図だ。

■4:もっと怖いのは、“数字が勝手に既成事実化”すること
総量240万㎥が恐ろしいのは、
「一度許可した数字は、次年度も同じだけ認めてOK」という空気を作りかねないところだ。
そうなると、
1年目:240万㎥という“超過設定”
2年目:前年に合わせて“踏襲”
3年目:「恒常的な実績」と誤認
4年目:数字が“慣習化”
5年目:見直しの議論すら消滅
こうして数字が勝手に“既成事実”として積み上がり、
本来の目的であるはずの「需要に合わせる」が完全に消える。
行政の数字というのは、
“設定”→“慣習”→“制度”
の順で固まっていく。
総量規制が数字遊びになると、この流れが一気に加速する。

■5:数字が“孤立”すると、現場とのギャップが爆発する
240万㎥という数字が一番危険なのは、
海や漁業の現場と完全に乖離している点だ。
• 漁場は疲弊
• 底質は変化
• 漁獲量は減少
• 砂の動態は年々変わる
• 気候変動で砂の再生速度も不安定
つまり、海のほうがすでに「数字の都合に合わせる余力がない」。
しかし行政は、机上で組み立てた数字(240万㎥)を前提に政策を続ける。
するとどうなるか。
現場のほうが「数字のための材料」にされてしまう。
たとえば──
「砂が足りないなら、採取エリアを少し広げればいい」
「境界線付近も安全に採れる」
「漁場との共存はできていると説明できる」
こうして“都合のいいストーリー”が量産され、
現場はますます疲弊していく。
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■6:最終的に起きるのは、制度そのものの“空洞化”
数字遊びが続くと、制度はこうなる。
• 総量規制 → 実態とリンクしない“飾り”
• 環境影響評価 → 結果より“形式”が優先
• 協議会 → 承認装置化
• 漁協との協議 → 意見を聞いた“体裁”のみ
• 行政 → 数字を守るだけの事務処理機関
つまり、制度全体が“空洞化”していく。
制度はある。
手続きもある。
会議もやっている。
報告書も整っている。
しかし、そこに「海」はいない。
形骸化した制度ほど、地域にとって危険なものはない。
■7:“数字遊び”で失われるのは、海砂じゃなくて「信頼」
結局、総量規制が数字遊びになると何が危ないのか?
それは──
行政への信頼が失われる
透明性が崩壊する
現場との関係が壊れる
海という公共財が静かに削られていく
ということだ。
海砂は再生に50年〜100年かかると言われる。
しかし行政の信頼は、一度失われたらもっと戻らない。
数字は便利だ。
でも数字だけを見て海を扱うと、
気づいたときには“取り返しのつかない場所”にきている。
総量規制という仕組みは、本来は海を守るための“盾”である。
その盾が数字遊びになるということは、
盾の裏側で、守るべき海が無防備に晒されるということなのだ。
JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次





