アイコン 韓国による拉致被害の対馬観音寺仏像 早く返せと外務省に要請

長崎・対馬の観音寺が25日、外務省に韓国に拉致されている同寺所有の仏像の早期返還が実現するよう韓国政府への働き掛けなどを求める内容の要望書を送ったと共同通信が報じた。

対馬の観音寺にあった観世音菩薩坐像は高さ50.5センチ、重さ38.6キロで、14世紀初期に製作されたと推定されている。
2012年10月、韓国人8人の文化財盗人団が、対馬の観音寺と海神神社に入って観世音菩薩坐像と銅造如来立像の仏像2体と経典・大蔵経を盗んで韓国に持ち込んだ。このうち銅造如来立像は2016年7月に日本に返還され、大蔵経は行方不明になっている。

当仏像は、元々浮石寺にあった仏像だが、李王朝が儒教を重んじ廃仏の大弾圧、世宗6年(1425年)には、各地の寺は36寺(浮国寺は36寺に入っていない)まで減らされ、ほかは両班たちなどにより焼き討ちにあったり、略奪にあったりして廃寺になった。

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中宗(在位1506年~1544年)の時代、仏教はさらに壊滅的打撃を受けた。
成宗は1492年、僧侶の度牒制度と出家を禁止。燕山君は2宗派の本山である興天寺(禅宗の本山)と興徳寺(教宗の本山)を1504年に廃寺にし、そのほかの寺院も遊興施設に変えた。
中宗は1507年に科挙の僧科を廃止し、また仏像を破壊させた。

浮石寺は日本統治までぼろぼろの廃寺であったが、仏教国の日本の韓国統治により再建され、現在の姿の原型になった。日本が韓国を統治しなかった場合、現在の韓国における寺も仏教界の存在も疑わしい。

当仏像は、度重なる仏教弾圧時の廃寺措置に、寺は破壊され略奪にあい、金目のものは売却されている。当時日本人に売り飛ばされたものと見られる。当時、李氏挑戦王の公認の下、釜山の近くには日本人街の館の「三浦倭館」、その後名称を変え「草梁倭館」(江戸時代)があった。対馬藩との貿易が盛んであった。

仏教を徹底的に排斥していた昔の韓国人であり、現在の韓国人たちが倭寇が当仏像を略奪したとする論拠は、逆立ちしても成立しない。

李氏王朝時代は王朝の日誌が残されており、仏教・寺についても克明に記録されている。韓国人(大統領・学者・反日勢力)はそうした歴史をよくよく勉強してもらいたいものだ。
故に南朝鮮=韓国は当仏像を北朝鮮同様拉致している。
 

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[ 2018年1月26日 ]

 

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