第3話:坂の街の影法師

長崎の坂道には、踏みしめた靴の重さだけが残る。
感傷も、郷愁も、ここにはない。
あるのは、地図に載らない力の流れだけだ。
午前9時、冬の光が白く凍る。
古びた喫茶店の窓は曇り、湯気の向こうに人影がひとつ。
弥五郎。
声を荒げる必要も、手を叩く必要もない。
座っているだけで、周囲の呼吸が浅くなる男。
テーブルには開かれた長崎新聞が沈黙している。
政治面は折りたたまれ、読みたい記事ではなく、読むべき空気だけがそこに置かれていた。
ドアが開き、中年の太り気味の議員が姿を見せる。
視線は迷い、足取りは慎重に運ばれ、
スーツの袖が小刻みに揺れている。
「……突然すみません」
弥五郎は返事をしない。
代わりに新聞を軽く指で叩いた。
音なき合図。

中年の太り気味の議員は、喉を鳴らす。
声は乾いている。
「推薦の件……県護側、まだ諦めていません」
沈黙。

弥五郎の眼差しは、冬の路面電車のように静かだが刺すように冷たい。
「動く理由は?」
低く、感情のない声。
「……県護さんには、まだ票読みが……」
「票読みではない」
弥五郎の声は刃物のようだった。
温度も摩擦もない。
「保身の嗅覚だ」
中年の太り気味の議員の肩がほんの僅かに揺れた。
弥五郎は続ける。
「風向きはどうだ」
「……均衡です。ただ、誰も口にしないが……揺れているのは事実です」
「揺れるのではない」
新聞の折り目を指先でなぞりながら、弥五郎は言う。
「揺らされている」
若い議員は唾を飲み込む。
言葉を探し、そして諦める。
「……私は?」
弥五郎は視線を上げることなく答えた。
「まだ、どちらでもない。
だがそれをお前が口にした瞬間、
お前は“どちらにもつかない人間”になる」
言葉ではない。
判決だった。
沈黙。
時計の秒針が、冷たい部屋の中でやけに大きく響く。
若い議員は深く頭を下げ、席を離れる。
靴音が遠ざかる。
扉が閉まる音だけが、やけに鮮明だった。
弥五郎は動かない。
新聞を折り、コートを整え、そして短く呟いた。
「勝つ者が正義になる。
正しさは、あとから付く」
外には、薄い冬の陽。
坂の街に影は短い。
だがその影は、長く尾を引いていた。
JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次





