アイコン 日本初の医学伝習所跡地(長崎市) 埋め戻し後新校舎建設へ 住民監査請求棄却

 

 

日本初の西洋式近代病院とされる養生所などの遺構が2015年に見つかった(旧)佐古小学校の校舎を耐震工事後に取り壊したのは不当だとして、遺構の保存を求める市民団体が、長崎市の田上市長に対し工事費用を市に返還することなどを求めた住民監査請求について、市の監査委員は「請求に理由がない」などとして棄却した。

日本初の西洋式近代病院とされる養生所などの遺構が見つかった長崎市の旧・佐古小学校は、市が別の小学校との統合に伴って校舎を建て替える方針を示し、昨年校舎を取り壊した。
これについて遺構の保存を求める市民団体のメンバーは、市が建て替えの方針を示したのは小学校の耐震工事が完了した5ヶ月後で、取り壊しは市民の財産の不当な処分にあたるとして、田上市長に対し耐震工事と取り壊しの費用あわせて2億7000万円あまりを市に返還するとともに、新校舎の建設を差し止めるよう住民監査請求を行っていた。

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16日、市の監査委員は監査結果を出し「耐震工事は、児童の安全を早期に確保するために実施されたもので、校舎の取り壊しも2つの校舎の状況を踏まえて地元の合意のもとで行われている。国からの承認も受けており、財産の不当な処分にはあたらない」と指摘した。その上で、新校舎の建設も差し止める理由はないとして請求を棄却した。


1857年(安政4年)11月12日:日本初となる長崎奉行所西役所内に医学伝習所を、オランダ人軍医ポンペ・ボードウィンが開講した。
1857年11月、生徒が急増し手狭になったため年内に大村町の高島秋帆邸内に移転。
1861年(文久元年)9月20日:養生所(小島養生所)開院とともに医学所併設。
1865年(慶応元年)4月:養生所・医学所を統合し精得館と改称。
1868年11月30日(明治元年10月17日): 当医学伝習所は、明治期になって長崎府医学校病院と改称され、長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)の源流。
(当初は伝習所、後に養生所に名が変わり、治療も行われていたものと見られる)

2015年、小学校の統廃合に伴う建て替え工事のため、長崎市が敷地の発掘調査を行ったところ、養生所の礎石や石垣、薬品を入れたとみられるヨーロッパ製のガラス瓶など5000点あまりが見つかり、遺構の保存を求める市民団体や長崎大学などが保存を求めていた。

業界の皆さんのお力添えに多選されている市長さんのご意向で決定したことであり、当地は何回も金のなる木として、業界の皆様に喜ばれている物件。

ただ、耐震工事直後に小学校の統廃合を決定して解体するとは、市長としての能力は無計画すぎ失格だろう。
長崎市はお金がいくらでもあり、また、市長らが選んだ監査員たちでもあり、お互いの幸せのために住民監査請求など門前払いが当然。
 

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[ 2018年3月19日 ]

 

 

 

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