第8回・大石知事に捧ぐ公開質問状
公共事業は法に叶い,理に叶い,情に叶うものであれ,そして誠実であれ!

メディア報道と“語られない声”──石木ダムをめぐる情報空間のゆがみ

石木ダム問題は、半世紀にわたって存在し続けた大規模公共事業です。
ところが、その規模に反して、全国的な報道は驚くほど少ない。
地元紙・県内メディアの扱いも限定的で、主要局が一斉に取り上げるわけでもない。
それに対して、
現地の13世帯50人は、日々の暮らしを守るために命がけで闘っている。
行政代執行という国家権力の最終手段すら口にされている。
──にもかかわらず、社会の大半は「何が起きているのか知らない」。
この異常な情報ギャップこそ、石木ダム問題の最大の“構造的な壁”です。

【視点1】巨大公共事業は“ニュースになりにくい”という不都合な真実
メディアには、報じやすいテーマと報じにくいテーマがあります。
• 事件・事故 →「即時性のあるニュース」
• 芸能・ゴシップ →「視聴率の取れるニュース」
• 経済・政治の動き →「専門的だが社会性が高いニュース」
では、石木ダムのような長期公共事業は?
「ニュースとして扱いづらい」カテゴリーに放り込まれる傾向がある。
理由は3つ:
1. 問題が長期化しており“進展が少ない”ように見える
2. 構造が複雑で、短い尺では伝えにくい
3. 行政・政治側の意向が働きやすい
つまり、“報じない理由”ではなく、“報じなくても困らない理由”が揃っている。
しかし、報道が少ないからと言って、
13世帯50人の苦しみが軽くなるわけではない。
むしろ、知られないことで状況は悪化していく。

【視点2】地元紙・地元局の“慎重さ”は、中立か? それとも忖度か?
長崎県内の報道には共通点があります。
• 行政の公式説明は大きく扱う
• 住民側の主張は少しだけ添える
• 根本的な必要性の是非には踏み込まない
この構図は、一見すると「中立」に見えます。
しかし実際には、
“論点の中心を避けている”という意味での歪み
が生じています。
地元メディアは行政と密接につながっており、
公共事業はスポンサーでもあるため、
強い批判には慎重になりがちです。
たとえば:
• 420億円の税金は妥当か
• 水需要予測は本当に正しいのか
• 行政代執行は許されるのか
• 13世帯の強制移転は合理的か
など、本来最も大きな論点は“深掘りされない”。
これでは、市民が正しい判断材料を得ることなどできません。
【視点3】行政の情報発信は「一方向」であり、対話になっていない
行政側の発信は、基本的にこうです。
• 「ダムは必要」
• 「治水・利水のため不可欠」
• 「移転の理解を得る」
• 「今さら必要性を議論する段階ではない」
これは説明ではなく、結論の宣告です。
住民が何を言っても、
データを示しても、
現場の声を届けても、
行政は「聞いたことにする」だけで、態度は変わらない。
この一方向の情報空間では、
13世帯50人がいくら叫んでも、
その声が“公式記録の外側”に押しやられてしまう。
【視点4】全国世論の関心が薄いことが、行政に“追い風”となっている
全国ニュースになれば状況は一変します。
• 行政代執行は世論の批判にさらされる
• 計画全体の妥当性が改めて問われる
• 政治家も軽々に強硬策を取れなくなる
しかし現状では、
石木ダム問題は「地方の出来事」として扱われてしまう。
そのため、行政は
“世論の監視の目が緩いうちに進める”
という行動が取りやすい。
逆に言えば、
市民の声が全国に届き始めた瞬間、
行政は急に慎重になる可能性が高い。
【視点5】語られない声こそ、社会が耳を傾けるべき声である
メディアに取り上げられない、
行政に届かない、
世論に広がらない。
それでも、石木ダム予定地では、
人が暮らし、
畑を耕し、
子どもが育ち、
先祖代々の地を守ろうとする姿がある。
この“日常の物語”こそ、
公共事業の議論では最も尊重されるべきところです。
行政が語らないなら、
メディアが語らないなら、
私たちが語らなくてはならない。
JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次





