アイコン 62年の石木餅、金子岩三がつき、息子の金子原二郎がこねし、石木餅、座りしままに、食ふは孫の金子容三。


金子容三

今から62年前、爺さんの金子岩三がつき、息子の金子原二郎がこねし、石木餅、座りしままに、食ふは孫の金子容三、金子家三代目にわたる金子家の家業というわけである。

62年前に持ち上がった石木ダムとはまさに金子家の家業であり、コンクリートダム計画地の前にある採石場には金子岩三氏の時からの後援会幹部である川棚町の財閥(田端家)「マユミ」の看板があざとく掲げられている。

 

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砕石工場

地方政治の分かりやすい利権の構図が垣間見られる。

https://ishikigawa.jp/what/video/
1958年(昭和33)2月に行われた長崎県知事選で佐藤勝也氏に敗れた金子岩三氏は同年6月に行われた衆議院選挙に出馬し当選、2期目の1962年(昭和37年)選挙区の川棚町に大型公共工事を誘致、票と利権欲しさに石木ダム計画をぶち上げている。

しかし、当時の佐藤勝也県政は地元川棚町の強い反対に遭遇し、石木地区住民にも配慮し、石木ダム計画の予備調査を断念している。
それに対し、金子岩三は長崎県に一刻も早く石木ダムの予備調査を行うように再三にわたって圧力を掛け続けていた。

当時、佐藤県政は大村市にある大村空港では将来のジェット機化に対応できないとして、大村湾に浮かぶ簑島への海上空港を計画中であり、1969年(昭和39)簑島地区の住民に海上空港の建設計画を正式に申し入れていた時期とも重なっていた。

実際に大村市簑島での用地買収の話が持ち上がると13戸66人の住民は猛反対したが、最終的に県幹部と、1970年(昭和45)の知事選で初当選した久保勝也知事も誠意を持ってに島民を説得、島民は苦渋の決断をし、長崎県の活性化と県政浮揚の一助になればと願い、1972年(昭和47)全ての島民が立ち退きを了承、3年後の1975年(昭和50)日本初の海上空港が完成している。

当時の簑島地区の13戸66人と、社会情勢が大きく転換している現在の石木地区川原(こうばる)の13戸53人とは比べられない。
あの時の簑島地区の13戸66人には、故郷を離れても、長崎県の活性化、県政浮揚という大義があった。
石木ダム建設にはコンクリートダム利権はあっても、一ミリの大義もない。

JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次

[ 2023年8月28日 ]
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