日本・ポーランド戦/ワールドカップは美意識を競う場ではない
日本・ポーランド戦をテレビで観戦していた多くの日本人が、あの一戦にはすっきりしないものを感じならも決勝トーナメント進出を喜んだはずである。
あの一戦、ポーランド戦は勝つのが目的ではなかった。決勝に進むのが目的だった。
たしかに負けたのは悔しいが、決勝トーナメント進出は素直に喜んだ。
案の定というか予想通り、中国・韓国が日本を批判している。
(農と島のありんくりん)が日本人の心中を明快にまた爽快に論じている。ゴールを決めたようにスカッとした気分である。
農と島のありんくりん
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/
移り変わる自然、移り変わる世情の中で、真実らしきものを探求する
サッカー話を続けます。
一昨日の3戦ポーランドで、ボールキープしたことについて、ヨーロッパが批判したことに追随して、色々と言われているようです。
得たりとばかりに、韓国は欣喜雀躍しているようです。韓国マスコミ総動員で日本バッシングに余念がありません。サッカーさえ反日ネタになるというのは微笑ましい限りです。
「韓国MBC(文化放送)解説者の安貞桓氏は「攻撃を1分間しなければファウルになる規則を作らなければいけない」と日本のボール回しを批判し、「この試合を中継するために準備したことがもったいない」と語った。
続いて「こんなことならいっそのことセネガルが正義を見せるためにゴールを入れてコロンビアと共に決勝トーナメントに進出してほしい」とし「韓国は美しく敗退したが、日本は醜く16強に進出した」と述べた」(中央日報6月29日)
http://japanese.joins.com/article/743/242743.html
どうしても日本を引っ張りだしたい、比較したい、自分は世界から称賛をうけていると言われたい、日本は最低だと言って欲しいという素朴な感情むき出しです。
こういう他民族を軽侮し、己が民族だけを高しとするような考え方を、悪しき愛国主義と言います。
うっとおしいから、こっち見るな、あっち見てな。
さてコメントにもありましたが、あの時間稼ぎ戦術が好きか嫌いかで言えば、感性的には私も嫌いです。
あの夜、アディショナルタイムの最後の1分までパワーゲームをしかけて欲しい、という感傷めいた気分が濃厚に私の中にあったことを白状しておきます。
今の川崎だったら最後の最後まで仕掛けそうです。リーグ戦なら後がありますから、それもありでしょう。
だって、スッキリするじゃないですか。もやもやが残らないで、明日からの仕事に臨めます。
しかし第3戦の至上命題は、グループリーグを勝ち残ること、その一点につきました。
そこで西野は二つの賭をします。
ひとつめは、決勝リーグを見据えて主力を温存し、相手の守備プランを攪乱するために大幅なメンバーチェンジをします。
香川、本田、大迫、原口、乾、昌子を温存し、控え選手を投入します。
メンバーの大幅交代とシステム変更はいわば奇襲です。
西野は常道に反するこの賭によって、格上ポーランドとの引き分け狙いを考えたわけです。
西野はその意図を、このように説明しています。
「決勝リーグに進んだ過去二大会は、すべてを出し尽くして16強に臨んだ。私はさらに勝ち上がることを前提で考えた」(産経6月30日)
ところがあろうことか、この西野の奇襲プランを、日本の馬鹿メディアは大々的に報じてしまいます。
奇襲はバラされてしまえば、それは奇襲ではなくただの控え組に替わったというだけのことです。
ポーランドは慌てて、この奇襲を迎撃するプランを練ったことでしょう。あからさまな利敵行為です。
本田はこうツィートしています。
「メディアの皆さん
ポーランド戦前にスタメンを公表してたけど、練習は非公開やったわけで・・・
真実の追求するポイントがいつもズレてるよ。
選手達も普段、後ろにファンがいるからと思って喋ってるんやから、もうちょっと考えてください」
事前に奇襲案が漏れてしまっていては、相手はそれに対応した布陣となってしまいます。
果たしてこの西野の当初の第1の賭けは失敗します。
酒井(高)と宇佐美は、チームの持ち味の短いパスを回せず、武藤のシュートはネットを揺らしませんでした。
槙野の守りはポーランドに翻弄され、オウンゴールしかねないシーンもあって、日本で見る観客の肝を冷やしました。もし入っていたら、ポーランドに亡命するしかなかったでしょう。
こういう言い方は気の毒ですが、主力メンバーとの力の差は予想以上に大きかったと思います。
後半14分にはとうとうポーランドに得点され、20分に主力の乾を投入して同点に追いつこうとしましたが、その1分後の21分には槙野がとうとうレバンドフスキに恐れていたイエローを献上してしまいます。
しかし、その後の29分にセネガルが1点ビハイドしたことを知ります。
西野はセネガルとのフェアプレイポイントを頭に入れていましたから、ここで戦術転換を決意します。
引き分け狙いから、この薄氷のようなフェアプレーポイント狙いへの転換です。これが第2の賭けでした。
37分のキャプテン長谷部投入は、この戦術転換を全員に徹底させるためのものでした。
確かにこれはセネガルが1点とったなら瓦解する戦術でしたが、勝負とは投機的要素を必ず含むものなのです。
勝てば褒められ、負ければボロクソ、これが国を背負って戦う監督の常です。西野はそれを引き受けたということです。
忘れて欲しくないことは、最後まで攻撃を仕掛けるというのは、あくまでも観客がスッキリしてたいからにすぎません。
ピッチで戦うプレイヤーや監督の立場ではないのです。したがって、テレビの前で見るしかない私達のもやもやなど一切関係ありません。
ところで、サムライ・ブルーとか、やたら侍を代表チームにつけたがりますが、いかがなものかと思います。
実際、批判には「侍魂どこに行った」というものもあるようです。
https://news.nifty.com/article/item/neta/12189-20161688954/
なにが「侍魂」ですか。「サムライ」という、自分たちがつけたネーミングに呪縛されています。
本物の侍は戦の前には謀略(調略)で勝ちを半ば決めておいてから、合戦に臨むのが常でした。 相手陣営を金と地位で転ばし、スパイ(細作)を大量に放ち、ニセ情報を流すなど日常茶飯事でした。
逃げ道の探索は周到に行い、退き口(撤退戦)を担うことは一番槍以上の誉れでした。
ですから、サムライは簡単に腹切りなんかしません。
その合戦だけではなく、まだ延々と戦が継続される場合が多いのに、簡単にひとつの戦が負けたからといって、その都度サムライが腹切っていたら戦力が自滅してしまいます。
彼らが全員討ち死にを覚悟して突撃するのは、もう後がない、せめて名誉だけでも語り継いで欲しいという最後の最後の局面だけでした。
美学を要求されるようになったのは、合戦の仕方も忘れられた天下泰平の江戸時代のことで、それを最悪の形で継承したのが、昭和陸軍でした。
伊東潤氏がこんな言葉を紹介しています。
「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」(「朝倉宗滴話記」)
私たち観客は、平和な江戸期の眼で戦国を戦っている代表チームを見ています。
西野は将として、本来の「侍」の生き方を踏襲しただけなのです。
ですから、韓国流に美しいか醜いかと問うこと自体がナンセンスです。
審美眼で、ワールドカップというグラウンドで戦われる「ルールある戦争」を見てはいけません。
あれはスポーツの形を借りた血の流れない「戦争」なのであって、民族の美意識を競うファッションショーではないのです。
結果として、その民族固有の美意識が戦いぶりに反映され、私たちの心を打つのであって、それが目的ではありません。
私は潔く散るサムライより、しぶとく生き残って戦う彼らを誇りに思います。
■友人から頂戴した写真です。インドネシア・スンバ島の海辺だそうです。