アイコン 「孫文・梅屋庄吉友情展」 旧香港上海銀行長崎支店記念館で開催中

 

 

長崎市出身の実業家、梅屋庄吉の生誕150周年を記念して、中国の革命家、孫文との厚い友情を紹介する展示会が、長崎市で開かれている。
この展示会は、長崎市出身の実業家で映画会社「日活」の創立者の一人、梅屋庄吉の生誕150周年を記念し、中国の革命家、孫文との厚い友情を紹介しようと開かれたもの。(孫文:辛亥革命で清朝を倒し中華民国を樹立した中心人物)

会場には、2人が互いに贈り合った品などおよそ45点が展示されていて、このうち梅屋庄吉が愛用していたという背中に「賢母」と書かれた羽織は、孫文が母のように物心両面で活動を支援してくれた、梅屋庄吉への感謝の気持ちを表すために贈ったもの。
また、梅屋庄吉が孫文の死後、その功績を日中両国の政府関係者などに伝えようと、100体以上作らせたとされるブロンズ製の孫文の胸像や、資金不足から実際には撮影できなかった「大孫文」という映画の脚本なども展示されている。

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梅屋庄吉:
長崎県生まれ。幼少期、土佐藩経営商社の土佐商会(岩崎弥太郎が長崎の責任者)の家主でもあった貿易商・梅屋家に養子入り。一時は米穀相場に失敗して中国へ退転したが、写真術を学んで写真館を経営するなど、香港で貿易商として地位を築く。
1895年(明治28年)に中国革命を企図した孫文と香港で知り合い、多額の資金援助をし、辛亥革命の成就に寄与。
1905年(明治38年)ごろに日本に帰国し、日活の前身であるM・パテー商会を設立。映画事業に取り組んで白瀬矗中尉の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作し、これらの事業で得た多額の資金を中国革命に投じる。
1913年(大正2年)に孫文が袁世凱に敗北(第2革命)し日本に亡命した後も、1915年(大正4年)に孫文と宋慶齢(後に中華人民共和国副主席となる/妹は袂を分かった蒋介石の夫人宋美齢)との結婚披露宴を東京・新宿(大久保百人町)の自邸で主催、孫文への援助を続けた。
1925年孫文病没
1929年(昭和4年)には南京に孫文像を寄贈。 また、頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らアジア主義者らと集い、フィリピンの独立運動にも関与した。
以上、
大局で動く、こうした人物たちが日本からいなくなって久しい。戦後今に至るまで、田中角栄を除き政治家や実業家たちはミミズのように蠢くばかり。

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[ 2018年11月 8日 ]

 

 

 

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