アイコン 予防接種 秋月藩医「緒方春朔」とは ジェンナーより5年早く人痘種痘法確立


昨年1月より新型コロナウイルス(SARS-COV-2)感染症が世界で猛威を振るい、すでに日本の全人口より多い1億4千万人が感染し、253万人が死亡、今なお2200万人が感染中であり、うち9万1千人以上が重症化して苦しんでいる(2021年2月25日現在)。
それでも、治療薬もワクチンもなかったこの疫病に対して、限定的な治療薬も開発され、さらに米ファイザー社と独ビオンテック社は画期的なメッセンジャー核酸を応用したmRNA型ワクチンを開発、臨床治験を行い、昨年12月4日にイギリスで最初に認可され、後続で承認受けたmRNA型モデルナ社やアでのウイルスを利用したベクター型ワチクンなどを含め順次、接種が始まり今や100ヶ国以上でワクチン接種が始まっている。すでにアメリカだけでも7200万回接種され、イギリスも1700万回の接種が行われ、年末から年始にかけての空前の拡大期となった感染も、各国のロックダウンや規制強化、さらにはワクチン効果も出てきており、世界でも最近では大幅な減少を見てきている。特に死者数が急激に減少してきている。

そうした中、予防接種起源につき、世界で知られる天然痘予防技術を確立したジェンナーより6年も早く、天然痘の予防法体系を確立した医師が日本にいた。その名は秋月藩医「緒方春朔」。
天然痘は今や完全に根絶されたが、当時の人々の天然痘に対する恐怖は、現代の我々には想像もつかないほど恐ろしいものであった。

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日本医史学会会員の富田英壽氏によると、
わが国の種痘の始祖、秋月藩医・緒方春朔は、天然痘の予防のため、予防接種である人痘種痘法をわが国で初めて成功させ、これを全国に広めた(ただし、インドなどでは紀元前からあった予防法ともされ、中国にも伝わっていた)。
時に、寛政2年(1790年)のことである。これは、エドワード・ジェンナーの牛痘種痘法の成功より、6年も早い時期であった。(重症化確率が極めて低いウイルス性の牛痘に感染した人(牧畜に携わる人たち)は、致死率の高い天然痘にかからない話があり、その牛痘ウイルスを種痘して天然痘の撲滅に貢献。免疫学の父とされている)

日本においては、この春朔こそが、種痘の始祖であり、予防接種の先駆者である。
しかし、この春朔の偉業については、世の中にはあまり知られていない。
ここに、『緒方春朔』を著し、広く春朔の業績を紹介し、先達の偉業を讃える。

最近の医学、医療の進歩は目を見はるものがあり、我々は多くの恩恵を蒙るようになった。
一方、脳死者からの臓器移植、生殖医療技術、遺伝子治療など最先端医療の受け入れには戸惑いや恐れを感じるのは私だけだろうか。
それは、伝統的な医の倫理では答えられない新たな問題が生じているからで、患者の利益になる大きな可能性がある一方で、実施方法によっては害をもたらす恐れがあるからである。
このような思いは、緒方春朔が当時の最先端医療である種痘法を案出し、広めようとしていく際にも、多くの医師や一般の人々が持ったであろう。
当時、非常に危険なこととされていたことを、春朔をして、そこまでさせたのは何だったのであろうか。

春朔の願う医療とはどのようなもので、どのように説明し理解を求めて、自分の願う医療を推し進めていったのか歴史的事実を振り返ることによって、多くの教訓を得ることができよう。

1、予防医療
当時、大変恐ろしい病気として怖がられていた天然痘は、幼少の子供たちが多く罹患し、大変難治で亡くなる者が多かった。免疫を持たない村にひどい天然痘が進入してくると、その8割の人びとが天然痘に罹り、罹った者の3割が死亡したという。
たとえ一命を取り留めたとしても顔面にあばたが残って醜くなってしまう。痘瘡、疱瘡とも呼ばれていたが、対症的な治療法しか無く患者を隔離することが最善の対策であった。

春朔は、天然痘が流行して多くの子供たちが亡くなっていくのに遭遇し、何とかならないものかと考え思案する日々を悶々と過ごしていた。

医業継承のため長崎に出て、吉雄耕牛のもとで蘭医学の勉学に励んでいた時に、中国から長崎に渡来した李仁山が、種痘という天然痘の予防法を行ったことを伝え聞いた。
また中国から入ってきた医書『醫宗金鑑』に種痘という天然痘の予防法があることを知り、関心を持って研究を始める。
 
天然痘は一度罹ると二度と罹らないことが知られていた。春朔は、中国の医書『醫宗金鑑』に載っていた旱苗種法という種痘の方法で、健康な人にごく軽い天然痘に罹らせておいて、その後に天然の天然痘に罹らないようにする方法を研究し、筑前秋月で天然痘の予防法、すなわち種痘を試み日本で初めて成功した。
ジェンナーの牛痘種痘法成功の6年前のことである。

しかし、天然痘は恐ろしい病気であった、人々は病気が自分に感染したら危ないと、患者から遠ざかり近づかない。
そのような時代に、天然痘の患者のかさぶたを取り、これを健康人の身体に入れ込むという医療行為はなかなか受け入れられものではない。
医者は危険と考え恐ろしくて誰も試みようとはしなかった。またそのような医療行為を受けようとする者も、受けさせる者もいなかったであろう。
 
この人痘種痘法は、天文学における「天動説」から「地動説」へのコペルニクス的転回以上の発想の転換でなかなか受け入れられるものではなかった。
 春朔が、懸命に説明理解に努めた甲斐あって、ある日、近所の大庄屋天野甚左衛門から自分の子供二人に種痘をして貰いたいという申し出があり、慎重に種痘がされ、無事成功する。
寛政2(1790)年2月21日のことであった。
その後、秋月の医師仲間が自分たちの子供たちに種痘を受けさせ、良い効を得る。それを知った近隣の藩士、農民、町人が種痘を請うようになる。

さらに、『醫宗金鑑』の方法を改良し、春朔独自の旱苗種法(鼻旱苗法)による種痘を考え出し、種痘の例数を重ねていくと、打てば響くように順調にいくものが多いことがわかった。
春朔は、「聖医は未だ病まざるを治す」という言葉があるが、まさにこのことであろうかと感動したという。
病気になった者を治すことも大事だが、病気に罹らないようにすることがより大事であると、予防医療、予防医学の重要性を力説した春朔は、「予防は治療にまさる」ことを実証した。

種痘は、今日の我々が受けているインフルエンザ、はしかやジフテリアなどの予防注射のはしりである。よって、予防注射を初めて行い、広めたのは緒方春朔である。

人痘種痘法は、嘉永2(1849)年にジェンナーの牛痘種痘法がわが国に入ってくるまでの約60年間、天然痘の予防に貢献した。
種痘という概念が医師や国民に理解が得られていたこと、接種技術、蓄苗などの種痘技術の習得経験が得られていたことは、その普及に寄与したものと考えられる。
すなわち、ジェンナーの牛痘種痘法導入の前段階の60年間、大いに貢献した。

2、説明する医療
春朔は、種痘が天然痘の予防に効果があることがわかったので、これを広めて天然痘の予防に資したいと願った。
しかし、この種痘の方法があまりにも変わっているので、でたらめな話だと怪しんで信用しない者が多い。この前代未聞の医療行為を、医者も、一般の人々も理解せず、しようともさせようとする人もなかなかいなかった。

そこで、種痘がどんなものか、注意して行えば安全で、天然痘の予防に効果があることを理解して貰うために、色んなところで話をして説明もした。

さらに広く多くの人に理解して貰うために『種痘必順辨』という種痘解説の本を書いた。医者ばかりだけではなく一般の人々の疑問を解き理解して貰うためだ。
その頃の医書は漢文で書かれたものが多かったが、春朔は一般の人たちにもわかるようにと、春朔はやさしい和文で書いている。

恐れている人々に、種痘は安全なもので順なるもの、すなわち「必順」であることを説いて、早く信用してもらい、安心して種痘を受け、天然痘で損なわれる子供たちを1人でも防ぎたいために『種痘必順辨』を著した。これが日本で初めての種痘書といわれている。

医術を秘伝家伝として人に教えて広げることが少なかった時代に、進んで説明と理解のために本を書き、種痘法を学びたいと請う医師には喜んで伝授し、九州を中心に全国に広めた。
緒方家の門人帳には約100名に近い医師の名が残る。遠くは、江戸、京都、難波、播磨、備中、越前、伊勢、伊予、土佐、石見から来て教えを請い、その中には21名の藩医の名も見られる。
さらに、『種痘緊轄』、『種痘證治録』の種痘書を書いて具体的な実施面の説明理解を深めていく。
春朔はこのようにさまざまな努力をし、種痘がどんなものかを、医師に限らず一般の人たちにも説明し理解を求めた。
今日、よくいわれるインフォームド・コンセントである。すなわち説明と同意を得ることをいち早く行っていった。

3、安全な予防医療、種痘=接種
種痘が正確で安全に行われるよう色んな手だてを考えた。
一つは種痘法が正確に安全に行われるよう三冊の種痘書を著してその指針にした。

二つは種痘の伝授に当たっては、「種痘伝法之誓約」を書かせ、次のことを誓わせている。種痘を正確に安全に行うには、我が案出した処置法を必ず守ること。もし、失敗して亡くなるようなことがあれば人を刀で刺し殺すのと同じである。医者の罪は大である。
種痘を施すに当たっては、よくその子供の状態を診察し、細心にして、よくよく熟慮して、得心がいって初めて種痘を施すべきである。

三つは『種痘必順辨』の巻末に自分が伝授した信頼される28名の医師の名を記載して、これらの医師から種痘を受けると、安心であることを皆に知らせて安全な医療を願っている。
寛政7(1795)年頃、「余ガ試ミル処ノ者既ニ千数ニ及ブト雖未一児ヲ損セズ」と『種痘必順辨』の追加一条で述べている。

春朔をして何がそうさせたのか。
それは、「医を業とする者、済世救苦を使命と考える」という、春朔の医師としての使命感以外に考えられない。
加えて、自分がやらなければ誰がやるのだろうかという思いであろうか。これらの固い信念でことを進めていったものと考えられる。
緒方春朔が願った医療に対する姿勢は、現今の医療人に多大な教訓となっている。
以上、長文のため一部割愛、詳しくは下記へ

富田英壽医師の「緒方春朔の偉業を讃える」
http://www.ogata-shunsaku.com/igyo.html

<米沢藩の名君上杉鷹山とも関係する秋月藩とは>
黒田長政で知られる黒田家福岡藩の南部の5万国の小さな支藩であるが、山裾にある秋月城跡は、春は桜、秋は紅葉、葛の里と知られ、城下は整備され、観光客も多い。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」米沢藩9代目藩主上杉鷹山とも関係する。
上杉鷹山は、日向国の高鍋藩6代藩主秋月種美の次男、母は筑前国秋月藩4代藩主黒田長貞の娘・春姫。母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘。このことが縁で10歳で米沢藩8代藩主重定(綱憲の長男・吉憲の四男で、春姫の従兄弟にあたる)の養子に入り、その後、鷹山は9代目の藩主となった。

当時の米沢藩は、河川の氾濫、飢饉が続き、一方、肥大化した家臣団(現地方公務員/国で言えば国家公務員)を抱え、米沢藩の財政は借金地獄、今日の日本のような財政破綻状況、藩主になった鷹山は、財政再建に取り組み、家臣団を大幅減員、産業振興に務め、立て直した名君として知られる。

平成・令和の時代、歴史に名を残す首相は登場するのだろうか、逆ばかりのようでならない・・・。悪代官ばかりのようだ。越後屋、そうよのう・・・。
今の日本に、上杉鷹山や緒方春朔のような人がいるのだろうか。そうした志士は戦後ほとんどいない。
国債という紙切れを発行し続け、名誉欲・私利私欲・派閥欲に走り、隠蔽してでも事なかれ主義を貫く没落士族の末裔が経営する国家のようでならない。変わらなくっちゃ。
小泉純一郎・・・財政再建に取り組んだものの、肝心の産業振興の芽さえも潰した超大バカ者。
安倍晋三・・・経済再建策に取り組んだ功績はあるが、単に国債を大増刷して日銀に抱えさせ大金融緩和にして円安、円安による企業利益からの大幅な法人税増と計5%の消費税増の資金数十兆年を毎年、全国津々浦々が喜ぶ公共投資に費やし、土建屋に対していい顔して、財政悪化の後始末もしないとんでもない人物。今や日銀と年金は東証最大の投資ファンド、年金投資機構=年金ファンドは国内株式に45兆円を投資し、日銀は34兆円も抱え込んでいる。これでは株価は下がることはない、一時的に下げてもすぐ戻す、株価を大きく下げられない国情が背景にある。その間、当然、米ハゲタカの餌食になっている。
新コロナ事態のように一過性で済めばよいが、世界的に暴落が続けば、日本の財政も日銀も年金も火の車となり崩壊する。そうした株価上昇の仕掛けを作った張本人が安倍氏であった。
安倍氏には、紙を用意するなり、尻ぐらい拭いてから辞めてもらいたいものだ。
新コロナ後、新コロナ特別税か、消費税15%~20%への引き上げが待っている。

[ 2021年2月28日 ]

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