長崎県を壊した男達!その7(ポスト大石は金子容三か?)

(昭和33年1月19日、県立東高校体育館で行われた西岡竹次郎氏の県葬の様子と若き日の西岡武夫氏の姿もある。)

昭和33年1月19日の西岡竹次郎氏の県葬が終わると、長崎県選管は、昭和33年2月5日(水)公示、3月2日(日)投開票を発表している。
選挙期間が25日間という今よりは随分と長い県知事選挙の幕が切って落とされた。
道路事情や交通機関が発達していない当時としては、それでも県内各地を遊説して回るのには25日間は短かった。
ポスト西岡の大本命は何といっても、西岡竹次郎氏の県民葬で葬儀委員長を務め、昭和32年5月の議長選で、自民党県議団を分裂させ、金子派と社会党、無所属と組み議長に再選されたばかりの策士、金子岩三議長だった。
自民党を分裂させ、野党と組み議長職を取るのは、この頃からの金子家のお家芸だった。
まさに、金子原二郎氏の陰謀、謀略好きは、父親譲りである。
昭和32年5月の自民党県議団の分裂劇を、温故知新、『伝記・西岡竹次郎』から、引用しながら、当時の長崎県議会の様子を学んで見ようと思う。

長崎県知事西岡竹次郎氏が病没する半年前の昭和32年5月議会は、任期2年の金子岩三議長の後任を巡って、自民党県議団の内紛が爆発、とうとう分裂し、長崎県政に大きな波紋を起こしていた。
自民党県議団は、前々から内部に紛争の因子を孕んでいた。それが、昭和32年5月、任期切れになる金子岩三議長の後任をめぐって一気に表面化したのである。
だいたい、長崎県議団は議長問題にはきわめて弱く、前の岡本議長時代の大混乱いらい、いわくつきのものであった。

その原因は、いつも多数を占める保守派のお家騒動に起因していたが、金子議長の後任でもまた、その兆候が見えはじめていた。
絶対数を誇る自民党は金子議長が誕生するとき任期2年と申し合わせていたが、いよいよ5月に任期が切れるというので、後任は誰にするかと3月議会ころから内々の動きが見え始めていた。
まず旧自由党系でも、森田が竹次郎に近いということで社会党、無所属などに反対されているところから、平穏のうちに解決した方がよかろうと金子を再び立てて、反森田勢力を結集しようとしていた。
また、自民党内でも田浦直蔵を押す気配があり、三派がそれぞれ党内の統一候補にしようと画策をはじめていた。
この頃から、長崎県の揉め事の裏では必ず『金子家』が動いていたのである。
金子岩三51歳
金子原二郎14歳の春である。

(長崎市桜馬場町の金子邸にて金子原二郎少年)
JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次






