アイコン 文在寅大統領は北朝鮮共産党と同質の政治家か 北元高官の金元鳳を褒めちぎる

 

 

韓国の文政権は、歴史清算を北朝鮮との関係の見直しに利用し、反日の象徴としてあまねく残滓の追求・追放を宣言している。
 韓国の政治家は、生きてもいなかった70年以上前の出来事に執着し、世界のすべての国が前を向いているのに対し、韓国だけは世界で唯一時計を止め、過去を向いた政治に執着、反日を政治の道具にすることで長生きしようとしている。
それは韓国にあって李明博がそうであったように保守も社会主義政権の文政権も変わらない。

本来、北朝鮮共産党体質の文在寅は、マッカーサーと結託した反共で極悪人の李承晩を追求すべきだろうが、李承晩については、朝鮮戦争を経た高齢の信望者も多く、朝鮮日報のように再評価しているマスコミもあり、戦略的に反日に攻撃の的を絞っている。

文在寅は、下記に出でくる北朝鮮の参謀となった「金元鳳」に対して、「心から最高級の独立有功者勲章をつけて差しあげたい」と書いていたそうだ。これでは、北朝鮮の「金日成」に対しても同じ思いを持っているものと見られる。白頭山でその孫と何を語りあったのだろうか・・・。
とんでもない人物が韓国の大統領であり、その支持率は50%と高い。反日教育を続けてきた洗脳の勝利なのだろうか。

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<本文>朝鮮日報より
文在寅大統領が6月6日の顕忠日に行った追悼演説で「国民統合」を呼びかけるため金元鳳(韓国の共産党として活動、1948年北朝鮮に渡り、北朝鮮政権樹立参画)に言及し、金元鳳を「左右統合のシンボル」、「韓国軍のルーツ」などと評価した。

保守系の自由韓国党と中道系の正しい未来の野党各党は、「大韓民国のアイデンティティを破壊した」、「護国英霊を冒涜した」などとして激しく反発した。

これに対して与党・共に民主党は「色分け論」、「イデオロギー対立を煽っている」などと反論し、正義党は、「金元鳳を攻撃すれば親日派」とまで言い出した。

 自由韓国党の羅卿瑗院内代表は、文大統領が三・一運動100周年記念式典でだしぬけに「アカという表現は親日残滓」(実際は戦後の朝鮮半島分断後李承晩が反共の砦)と言い出したことや、また5・18(1980年5月18日の光州事件)記念式典で「独裁者の後裔」(暗に自由韓国党を指す)などと発言したことを取り上げ、「保守右派が絶対に受け入れられない発言で怒りと非難を煽り立てている」とも指摘した。

正しい未来党の孫学圭代表も、「文大統領に国民統合の意志があるとは全く考えられない」、「顕忠日に顕忠院で行った発言としてはあまりにも不適切だ」と指摘した。
同党の呉晨煥院内代表も「護国英霊に対する冒とくだ」と述べた。
(金元鳳に建国勲章を与えるための策動とみなしている)

共に民主党の朴洸温最高委員は「金元鳳先生は、日帝が世界史的懸賞金をかけた独立運動のシンボルだったが、解放された祖国でも日帝植民地に荷担した反逆者から弾圧を受けたすさまじい歴史の犠牲者になった」、「親日が抗日の価値を侮辱する痛みと悲しみを克服すべき時だ」と主張した。

(社会主義政党の)正義党のチェ・ソク報道官は「金元鳳先生の再評価をめぐって自由韓国党などが反発するのは、結局は金元鳳先生のような人物を攻撃してきた盧徳述(戦後の韓国警察官/ゼネストで逮捕した金元鳳を拷問したとされる)のような親日派の行動を正当と抗弁するようなものであり、自分たちのルーツが親日派であることを自白するようなものだ」として自由韓国党を攻撃した。

大統領府は、「追悼演説のポイントは、政派やイデオロギーを乗り越えて統合を呼びかけるという趣旨だった」とコメントした。
大統領府の関係者は、「(文大統領は)愛国においては、保守も進歩(革新)もないという趣旨で語り、その歴史的な実例として(金元鳳について)言及した」、「臨時政府もイデオロギーや政派を越えて構成されたし、白凡逸志にも金九先生による大同団結の呼びかけに金元鳳が応えたことが記載されている」と主張した。白凡逸志とは金九の著書だ。
(金九は北朝鮮へ離脱した金元鳳に対しては容認どころか警戒していた)

<金元鳳とは>
(1898年9月28日~1958年11月)は、朝鮮の独立運動家、北朝鮮の政治家。
義烈団・朝鮮義勇隊で活動し、大韓民国臨時政府(韓国)の光復軍副司令官となる。
日本の敗戦後、南朝鮮(韓国)で1948年に民主主義民族戦線などで活動しながら、金奎植・金九などと共に「南北連席会議」に出席した後、南朝鮮(韓国)に戻らず、北朝鮮に残留し、北朝鮮の政治家となった。

北朝鮮に社会主義政権が樹立された後は、朝鮮労働党中央委員会中央委員、最高人民会議常任委員会副委員長などを歴任した。
最初の妻である朴次貞は、北朝鮮の国家元首を務めた金枓奉の姪。

1926年1月、崔林の名で中国の黄埔軍官学校に入学し、朝鮮民族革命党創設した。
1945年終戦で、臨時政府要人らとともに韓国へ帰国。
1945年9月8日、朝鮮人民共和国の内閣が発表されると、金元鳳は軍事副将に選任された。
1946年2月16日、北朝鮮臨時人民委員会を創設(ソ連主導で金日成が初代委員長に就任)、民族主義民族戦線の共同議長に推戴された(この時期は南朝鮮=韓国にいた)。

南朝鮮=韓国に帰国した後、金元鳳は、金九らの臨時政府の特別政治委員会中央委員として左翼陣営と連帯したが、左右両翼の対立に嫌気が指し、臨時政府を脱退した。

以後、民主主義民族戦線の共同議長に選出され活動、李承晩ら反共右翼と決別した。

1947年3月、韓国で、南朝鮮労働党(北朝鮮では南労派)が主導して、ゼネストが発生すると、これに関連し、逮捕された。金元鳳の逮捕は、愛国志士に対する冒涜だという世論が高まり釈放された。

1947年7月、反共団体「白衣社」のメンバーに狙撃された、呂運亨(独立運動家/1945年8月、建国準備委員会を立ち上げ、9月に朝鮮人民共和国を結成した人物)が暗殺され、怒りを示した哀悼文を、「光明日報」「努力人民」など左翼誌に掲載し、呂の遺志を引き継ぐと訴えた。

南北協商(南北連帯会議)参加
しかし、1948年、南北連席会議のときに、金九・金奎植と共に北朝鮮を訪問した後、南朝鮮=韓国に帰国せず、そのまま滞在し、越北人士(南労派)となり、その年最高人民会議第1期代議員として朝鮮民主主義人民共和国政府樹立に参加した。

しかし、反共の李承晩ら右翼陣営の標的となり、5ヶ月を経たずしてテロを避けながらの移動生活を余儀なくされた。一方、金九の臨時政府からは警戒された。

1948年9月、北朝鮮で、金日成らにより北朝鮮政権樹立、国家検閲相に任命された。
1958年、北朝鮮政権から労働勲章を授与された。
1950~1960年代にかけ、満州派の金日成は、北朝鮮内の金元鳳ら南労派(韓国にあった共産主義政党)・延安派(朝鮮義勇軍として活動)、甲山派、ソ連派など満州派以外を粛清し、失脚させ、のちに粛清されたとされる。

まぅ、韓国の政治は、前近代的な試行錯誤を永遠に繰り返している。相手にできるような相手ではない。

 
[ 2019年6月10日 ]

 

 

 

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