アイコン 小さなダムの大きな闘い(石木川まもり隊)その4


『意識を変えよう』

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昭和33年(1958)、5月、衆議院解散、第28回衆議院総選挙に旧2区から金子岩三氏立候補し初当選を果たしている。

派閥は宏池会(池田隼人・前尾繁三郎・大平芳正・鈴木善幸・古賀誠)息子である金子原二郎と同じ宏池会(池田派)、現在の岸田派に所属し、その後の長崎県政に強い影響力を持つ国会議員・金子岩三が誕生した瞬間であり、石木ダム問題が浮上する2年前のことである。

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そして昭和35年、(1960)、7月19日、金子岩三の派閥の長である池田隼人が総理大臣に就任し、金子岩三は総裁派閥の国会議員として着実に力を付けていく。

昭和35年(1960)、11月20日、衆議院総選挙が行われ、旧2区の金子岩三後援会有力幹部から川棚町石木地区にダム建設誘致の陳情があり、地元の意向を汲み、中央(派閥・政府・建設省河川課)を動かし、必ず川棚町に石木ダムで金と仕事を持ってくると選挙公約した金子岩三氏は再選を果たしている。

再選を果たした金子岩三は総裁派閥の力もあって公約通り、石木ダムの調査予算を取り付けることに成功している。

ここらの動きは流石であり、金子岩三の網の掛け方は実に巧妙である。

当時、財政も厳しく、貧しかった川棚町にとって公共事業を取ってくる金子岩三は神様のような存在だった。

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約束通り、昭和35年(1962)、石木ダム建設が正式に長崎県として俎上にあがり、この年、総裁派閥の国会議員・金子岩三に急かされて、 県は町と地元に無断でダム建設を目的に現地調査、測量を行った。

ところが、地元住民は直ちに町に抗議、町もこれを受けて県に抗議し、その後、地元の強い反対の意思を確認した佐藤勝也県知事(当時)は事実上石木ダム建設を事実上棚上げし、佐藤勝也県政は、地元住民の並々ならぬ反対を真摯に受けいれ、石木ダム建設計画を8年間、1ミリも動くことはなかった。

だが、ここから石木・川原地区に暮らす住民の苦悩の60年が始まるのである。

インターネット長崎奉行・遠山金四郎こと中山洋次

[ 2021年10月26日 ]
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