アイコン 小さなダムの大きな闘い(石木川まもり隊)その6


「意識を変えよう」

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国会議員で智謀の将、金子岩三氏が「県知事は佐藤勝也以外ならウマンクソ(馬の糞)でんよか」と公言して担いだウマンクソ(馬の糞)が五島出身の久保勘一氏である。

そして昭和45年(1970)久保県政という名の金子王朝が誕生している。

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金子岩三

 

そんな負け戦と分かっていながらも最後まで佐藤勝也知事を支援し、佐藤知事と殉死を共にした県職員幹部や大手ゼネコンがあった、石本元水産部長と鹿島建設である。

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金子岩三氏の壮絶な切り崩しによって4期目を目指す現職の佐藤知事の敗戦が濃厚になってきた頃、鹿島建設の島谷所長に対して社員は勿論、下請け会社の社長連中からも「所長、この知事選は久保さんの圧勝です。何故?そこまで佐藤知事を支援するのですか、久保勘一さん本人が、勝敗はついている。今からでも久保陣営に来いと誘われています。」と進言すると、島谷所長は下請けの親方に対して、「佐藤知事が今回の選挙で負けるのはわかっている、だがな、長崎県知事を3期12年も務めた佐藤勝也を一人で寂しく死なせるような真似ができるか、3期も長崎県知事を務めあげた佐藤知事にそんな寂しい思いはさせられないだろう。私は一人になってでも佐藤知事と殉死する。貴方達は今からでも久保さんを応援しなさい。」と言って、最後まで佐藤勝也氏に殉じたという。

筋を通す、本物の男であった。

余談だが、その後、久保県政になり新長崎空港の入札が行われたが、見事に鹿島建設は外され、新長崎空港のメーン工事は鹿島建設に価格、技術、企業規模で大きく劣る藤田建設が受注している。今でも語り草になるような露骨な選挙による論功行賞が行われていた。

昭和45年(1970)3月、戦前の予測とおり第7代長崎県知事に就任した久保勘一県政は佐藤勝也氏を支援した者達への粛清から始めている。県庁の人事はもとより粛清も金子岩三氏の手によって行われていた。

県庁幹部という立場で最後まで佐藤知事を支援した水産部の石本正七部長は日中友好条約が調印され、日本と台湾との国交断絶が決まり、職員が3人しかいない閉鎖が決まっている台湾長崎事務所の所長に転勤を命じられるという凄まじい粛清の嵐だった。

その後、久保知事は「あの人事は金子岩三さんがやった」ということを、後年、ある事を契機にご本人も認め、石本正七元水産部長に謝罪したということである。

そういう陰湿なところは金子岩三、金子原二郎、よく似た親子だったわけである。

因みにその3人しか職員がいない事務所の閉鎖準備をしている台湾長崎事務所に転勤を命じられた石本正七部長は何もすることもなく囲碁をして過ごす毎日だったと、後年笑いながら語っておられたそうである。

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久保勘一

インターネット長崎奉行・遠山金四郎こと中山洋次

[ 2021年11月 1日 ]
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