アイコン 小さなダムの大きな闘い(石木川まもり隊)その7


「意識を変えよう」

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ところが、台湾長崎事務所にいる石本正七氏に久保知事から電話があり、至急長崎に返って来てくれ、新長崎空港が計画されている簑島の住民、漁協組合が立ち退きに同意しない、このままだと昭和49年に予定している空港完成に間に合わない、何とか前水産部長として簑島の住民、漁協の組合長を説得してくれとの下命だった。

そして石本正七氏は台湾から呼び戻され、簑島に渡り粘り強く交渉、漁協長と久保知事の会談をセット、その時に久保知事が石本正七氏から渡されたメモを会談場所に置き忘れたのか、落としたのか定かではないが、それを見た簑島の漁協長等は「久保知事は腹の太か、真剣に島の事を考えてくれている」と感動し、その後の島民と県との立ち退き交渉はスムーズに進み、無事調印も済み、めでたく昭和49年、長崎空港は完成する。

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その時のメモをマスコミは「久保メモ」と呼び、県庁では「石本メモ」と呼ばれていた。

その石本正七氏も水産部長時代、石木ダム建設工事による大村湾への漁業に与える影響などを懸念し、また、あれだけ強い地元住民の反対を押し切ってまでやる事業でないことを佐藤知事に忠言していた県幹部の一人だった。

その幹部たちも久保県政誕生と同時に県政運営から排除されている。

そこに金子岩三氏の意思が強く反映されたことを、当時、長崎県政で知らない者はいない。

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金子岩三氏

昭和46年(1971)久保勘一氏が知事に当選した翌年の12月、県は地元に石木ダム建設のための予備調査を依頼している。

久保知事にとって自身を県知事にしてくれた金子岩三氏の命令は絶対だったことは、容易に推察されることである。
また、悲しいことに雇われマダムの久保知事はパトロンである金子岩三氏の指示通りに動いている。

翌年昭和47年(1972)7月29日、予備調査に関する覚書が交換され、ダム予定地内十数ヶ所ボーリング調査、横杭調査、地震探査などが実施された。この強引な予備調査の裏に金子岩三氏の並々ならぬ強い意志が働いていたことは当時の県庁幹部、川棚町関係者なら誰でも知っている公然の事実である。この時の覚書には、県と町の二通り、県と地元の覚書4条は、県が調査の結果、建設の必要が生じたときは、改めて三部落と協議の上、書面による同意を受けた後、着手するものとする。とあり、町との覚書きの第1条は、石木川の河川調査に関して三部落長崎県土木部長との間に取り交わされた覚書は、あくまで地元民の理解の上に作業が進められることを基調にするものであるから、若し長崎県が覚書きの精神に反し独断専行或いは強制執行等の行為に出た場合は、川棚町竹村寅次郎町長(当時)は総力を挙げて反対し作業を阻止する行動を約束する。とあった。

この覚書きが、今回の県の強制測量にあたって大きな問題になったのは当然のことであった。

しかし、県は、この覚書きについて、言を左右にして認めようとしなかったのである。

インターネット長崎奉行・遠山金四郎こと中山洋次

[ 2021年11月 3日 ]
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