アイコン 小さなダムの大きな闘い(石木川まもり隊)その8


「意識を変えよう」
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http://ishikigawa.jp/about/alliance/tatakai/

県は調査を実行するにあたり、地元と地元の覚書を交わし、県が調査の結果、建設の必要が生じたときは、改めて三部落と協議の上、書面による同意を受けた後、着手するものとする。とあり、町との覚書きの第1条は、石木川の河川調査に関して三部落長崎県土木部長との間に取り交わされた覚書は、あくまで地元民の理解の上に作業が進められることを基調にするものであるから、若し長崎県が覚書きの精神に反し独断専行或いは強制執行等の行為に出た場合は、川棚町竹村寅次郎町長(当時)は総力を挙げて反対し作業を阻止する行動を約束する。とあった。

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この覚書きが、今回の県の強制測量にあたって大きな問題になったのは当然のことであった。
しかし、県は、この覚書きについて、言を左右にして認めようとしなかったのである。
そこまでして県が調査を実行したいという真意、その裏にあるのは久保県政の生みの親である金子岩三氏の石木ダム建設への強い執念と地元土建業界の公共工事への信仰に近い依存である。

この時の調査に対して、反対同盟は「何故あの時の予備調査を認めたのか・・・・」
と、悔やんだが、後の祭りだった。
(12)、昭和49年(1974)8月、その時の調査結果は、久保知事名で「石木ダム河川開発調査結果について」という文書によって、「一部に脆弱部がみら
れ、透明性についても一部に大きい透水箇所等が見受けられるが、ダム建設は可能」と報告され、11月には地元に対する初めての説明会が開催されるなど、静かで、穏やかだった生活は一変し、石木地区はダム問題で否応もなく翻弄されていくことになる。
(13)、昭和49年(1974)12月、地元住民は町長の仲介により、三部落総代が県知事にダム建設反対の陳情を行った。
(14)、昭和50年(1975)10月、地元三部落は「石木ダム建設絶対反対同盟」を結成、川崎勝氏を委員長に選出、県へ抗議、計画の白紙撤回を求めた。
この年地元の労働団体である東彼地区労は定期大会の中で、反対闘争の支援を決議したが、地元反対同盟の受入れ体制がなく、宙に浮いた状態となった。
(15)、昭和52年(1977)の暮れになると県職員、町助役、職員などが積極的に戸別訪問を開始したが、これに対して反対同盟は「県職員面会拒否」で対処していった。
(16)、昭和53年(1978)8月、川棚町は臨時町議会を開催、町議会水総合対策委員会の報告を了承、「ダム建設の必要性を認める」との議会決議を行った。佐藤県政で8年間1ミリも動かなかった石木ダムは、久保県政になって僅か8年で状況は大きく転換、地元住民の間でも反対から賛成に変わる住民も現れ、地元三部落も反対派と賛成派に分断され、諍い等の悲劇が起こり始めていた。

更に、この決議に力を得た県、町当局は、従来にも増しての戸別訪問を行ったが、
川原地区の青年部を中心とする反対同盟は「見ざる、言わざる、聞かざる」というユニークな戦術をあみだし、対処していった。

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金子岩三氏

インターネット長崎奉行・遠山金四郎こと中山洋次

[ 2021年11月 5日 ]
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