アイコン 小さなダムの大きな闘い!(石木川まもり隊)その9


「意識を変えよう」

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http://ishikigawa.jp/about/alliance/tatakai/

昭和54年(1979)中頃になると、久保知事を先頭に地元に対する説得活動は強引をきわめ、圧力行政を露骨に表してきた。
また、町当局や県が地元有力者へ酒食のもてなしを行っての切り崩し戦術をとっていることなども表面化していった。
昭和54年(1979)12月に開催された石木ダム建設絶対反対同盟の委員会では、町長列席の上、町建設課の一ノ瀬参事の手になる「石木ダム雑感」という、いってみれば地元住民を恫喝(どうかつ)するが如き町当局の考え方が説明され、さらに加えて、地元住民がこれ以上、反対を続けると「土地収用法」が適用され、元も子もなくしてしまうぞ、という悪辣な脅しをかけてきている。

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http://ishikigawa.jp/wp-content/uploads/2016/07/zakkan.pdf

「石木川雑感・川棚町建設課・一ノ瀬参事」
この久保県政の強引とまでいわれた圧力行政の裏には旧長崎2区選出の衆議院議員で科学庁長官・農水大臣を歴任した金子岩三氏の圧力があったことは、久保県政誕生の経緯から見て簡単に想像できる。

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久保勘一

このことに対して、12月町議会でも問題となり、社会党町議を中心に追及が行
われるなど、同盟員の激しい反発を買うと同時に、川崎勝委員長を中心とする反
対派幹部の条件派への鞍替えに大きな力を発揮してきた。
さらに、県は石木郷倉本に「石木ダム建設事務所」を設置し、常駐職員を置いて説得、切り崩し対策にやっきとなっていった。
ここらにも金子岩三氏の選挙区への公共工事誘致という執念が感じられる。

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金子岩三

こうした中で、反対派の強い川原地区の数名の青年部を中心に「ダムからふるさとを守る会」が結成され、独自の活動が始まっていったのである。
インターネット長崎奉行・遠山金四郎こと中山洋次

[ 2021年11月 9日 ]
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